んな事件か、わしはなんにも知らん。ただはっきり言えるのは、彼奴《あいつ》はなかなかのしっかり者で、婦人に対してもすこぶる潔癖《けっぺき》だから、その点は心配しないように」
老所長の言葉は、なんだか六条子爵のことを言外《げんがい》に含めていっているようにも響《ひび》いた。
とにかく風間光技は、日毎夜毎《ひごとよごと》の悒鬱を払うには丁度《ちょうど》いい機会だと思ったので、早速《さっそく》老所長の命令に従《したが》って、自分の力を借りたいという帆村荘六の事務所へでかけたのだった。
帆村の探偵事務所は、丸《まる》の内《うち》にあったが、今時《いまどき》流行《はや》らぬ煉瓦建《れんがだて》の陰気《いんき》くさい建物の中にあった。びしょびしょに濡《ぬ》れたような階段を二階にのぼると、そこに彼の事務所の名札《なふだ》が下げてあった。彼女は、入口に立っていちょっと逡巡《しゅんじゅん》したが、意を決して扉を叩いた。すると中から、
「どうぞ、おはいりください。扉に錠《じょう》はかかっていませんから、あけておはいりください」
と、若々しいはっきりした声が聞えた。風間光枝は、吾れにもなく、身体がひきしまるように感じて、扉を押した。すると、室内には、入ったすぐのところに大きな衝立《ついたて》があって、向うを遮《さえぎ》っていた。その衝立の向うから、ふたたび声がかかった。
「さあどうぞ。どうぞ、その椅子に掛けて、ちょっとお待ちください。ちょっといま手が放せないことをやっていますから、掛けてお待ちください」
「はあ、どうも。では失礼いたします」
風間光枝は、挨拶《あいさつ》をかえして、入口を入った左の隅《すみ》のところにある応接椅子に腰を下ろした。その傍《わき》に、別な部屋へいくらしい扉があって、閉っていた。その扉のうえには、どこかの汽船会社のカレンダーが「九月」の面《めん》をこっちに見せて、下っていた。
光枝の腰を掛けているところからは、やはり衝立の奥が見えなかった。彼女はしばらくじっとしていた。衝立の向うで声をかけたのは帆村であろうが、彼は一体なにをしているのか、ことりとも物音をたてない。
彼女は、すこし待ちくたびれて、眠気《ねむけ》を催《もよお》した。欠伸《あくび》が出て来たので、あわてて手を口に持っていったとき、突然思いがけなくも、彼女が腰をかけているすぐ傍《わき》の扉が
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