社の前あたりまで来たときに、そこにいた地方出身の爺《じい》さんが、窓をあけちまったんです。私が止めようとしたときにはもう遅うございました」
「君は一体どこに居たんだ」
「向うの入口(と彼は指を後部|扉《ドア》へさしのべた)から龍子を監視していたのです」
「龍子は死んだか」そう云って警部はうしろを向いた。彼女は軽便担架《けいべんたんか》の上で、裸にむかれていた。
「課長さん、重傷ですが、まだ生きています。創管《そうかん》は心臓を掠《かす》って背中へむけています。カンフルで二三時間はもっているかも知れません」と医師が言った。
「意識は恢復《かいふく》しないかネ」
「むずかしいと思いますが、兎《と》に角《かく》さっきから手当をしています」
「輸血でもなんでもやって、この女にもう一度意識を与えてやってくれ」警部は、紙のように真白な赤星龍子の顔を祈るようにみてそう云った。
「多田君、田舎者の爺《じい》さんというのは、どこに居るか」
「はァ、そこに居ますが……」そう云って多田刑事は車内の連中の顔をみまわしたが居なかった。刑事は狼狽《ろうばい》して、一人一人を訊問《じんもん》した。その結果、仕切の小扉《こドア》をひらいて後の車へ行ったのを見たと云った者がいた。驚いて後の車を尋《たず》ねてみたが、田舎者の爺さんなんか、誰も見たものがないというのだった。
「なに、どこにも見当らないって」その報告をきいた大江山警部は、鈍間《とんま》な刑事を殴《なぐ》りたおしたい衝動《しょうどう》に駆《か》られたのを、やっとのことで我慢した。
「課長どの、こういう方がお目にかかりたいと仰有《おっしゃ》いますが」と部下の一人が、一葉《いちよう》の名刺を持って来た。とりあげてみると、
「私立探偵。帆村荘六」
大江山警部は、帆村の力を借りたい心と、まだ燃えのこる敵愾心《てきがいしん》とに挿《はさま》って、例の「ううむ」を呻《うな》った。そのとき側《かたわ》らに声があった。
「大江山さん。総監閣下を通じてお願いしましたところ、お使い下さるお許しを得たそうでして大変有難うございました」
「やあ、帆村君」警部は、青年探偵帆村荘六の和《なご》やかな眼をみた。事件の真只中《まっただなか》に入ってきたとは思われぬ温容《おんよう》だった。彼は帆村を使うことを許した覚えはなかったが、それは多分帆村探偵の心づかいだろうと悟って、悪い気持はしなかった。
帆村探偵と大江山捜査課長とは、顔を近づけて、それから約二十分というものを、低声《ていせい》で協議をした。それが終ると、大江山警部の顔色は、急に生々と元気を恢復してきたように見えた。
「さあ、赤星龍子さんを、伝染病研究所の手術室へ送るんだ。ここから一番近くていい。それから私も、そっちの方へ行くから、用事があったら電話をかけて貰いたい」
部下一同は呆気《あっけ》にとられたのだった。大江山課長は、今宵《こよい》三人の犠牲者を出したこの駅に、徹夜して頑張るのだろうと、誰もが思っていた。なんの面目《めんぼく》があってオメオメ此の現場を去ることができるのか。それに、電車はまだひっきりなしに通る筈だ。終電車までにまだ二時間もあるではないか。それを気に留めないで引き払おうという課長の意が、那辺《なへん》にあるかを計りかねた一同だった。
頭の働く部下の一人は、こう考えた。
(課長が重症の赤星龍子について引上げるというは、最早《もはや》今夜は犯罪が行われないことがわかったのだ。なぜそれが確かになったのであるか。――うん、もしかすると、赤星龍子が射たれたというのは間違いで、彼女は、われとわが身体を傷《きずつ》けたんじゃなかったか。彼女の自殺! あの怖ろしい省線電車の射撃手は、実に赤星龍子だったんだ。)
そう思って眺めると、彼女を伝研《でんけん》の病室に送る一行の物々しさは、右の推定《すいてい》を裏書《うらが》きするに充分だった。
「赤星龍子はカンフルで持ち直して、うまくゆくと一命はとりとめるかもしれないということだ」
そんな噂が、伝研ゆきの自動車が出て行ったあとで、駅員たちの間に拡って行ったほどだった。果して龍子は助かるだろうか。のこる四人の容疑者の謎は、もうとけたのだろうか。
7
「大江山さん。手筈《てはず》はいいですか」
「すっかり貴方の仰有《おっしゃ》るとおり、やっといたです。帆村君」
ここは伝研の病室だった。伝研の構内には、昼間でも狸《たぬき》が出るといわれる欝蒼《うっそう》たる大森林にとりまかれ、あちこちにポツンポツンと、ヒョロヒョロした建物が建っていた。今は、ましてや真夜中に近い時刻であるので、構内は湖の底に沈んだように静かで、霊魂《れいこん》のように夜気《やき》が窓硝子《まどガラス》を透《とお》して室内に浸《し》みこ
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