の籠に近づいた。
 そして彼のかわいがっている小鳥に、餌をあたえはじめた。それが大方終りに近づいた頃、
「はい、ごめんよ」と、店へはいってきた男があった。背の高いりっぱな人物だった。日本人のようであり、また外人のようにも見える。
 この紳士こそ、四馬剣尺の部下として重きをなす机博士その人であった。
「ご主人。そのガラス箱の中にはいっている金貨の半分になったようなものを、ちょいと見せてもらおう」
 博士は、長い手を延して、ガラス箱の棚を指した。
「ああ、これですか」
 老商チャンは、それを取出して客に見せた。チャンは、立花先生と売約《ばいやく》が成立したことを忘れているような態度で、気軽に三日月形の黄金メダルをだしてみせたのである。
「これはおもしろいものだ。惜しいことに半分になっている。ご主人、これは本物のゴールド(金《きん》)かね」
「純金《じゅんきん》に近い二十二金ですわ」
「ふふん。で、値段はいくら」
「あまり売れ口がええものやないさかい、まあ大まけにまけて三十万円ですな」
「三十万円! あほらしい、そんな値があるものか。ご主人、十五万円ではどうだ」
「あきまへん。三十万円、一文も引けまへんわい」
「そうかね。それじゃこれから三十万円、なんとかして集めてこよう」
 机博士はそういって、チャンの骨董店をでていった。
 その博士は、店先から五六歩離れると、肩をすくめて、ふふんと笑った。
「あの慾ばり爺《じじい》め、まさかおれが、あの黄金メダルの裏表をあの店の中で、写真にとってしまったことに気がつくまい。ふふふ」
 そういって、机博士は、オーバーの釦《ボタン》に仕掛けてある秘密撮影用の精巧な小型カメラを、服の上から軽く叩いた。博士らしい早業《はやわざ》であった。
「……だが、あの黄金メダルがあそこに売りにでていることを、頭目に知らせたものか、それとも何とかして、おれが手に入れておいたものか、さて、どっちにしたものだろうなあ」
 博士は、海岸通りの方へ、長いコンパスで歩いていった。
 第三の客がきたのは、それから三十分ばかりあとのことであった。
 その人は、外国の船員の服装をつけていた。髪も瞳も黒くて、日本人のようであったけれど、顔色の赤いことや鼻柱の高いことなどから見て、スペイン系の人のようであった。彼の顔立ちは整《ととの》っていたが、どうしたわけか、おそろしい刀傷のあとが、額の上から左眼を通り、鼻筋から、唇までに達していた。ものすごい斬《き》り傷《きず》であった。しかしその傷は、光線が彼の顔の上に、或《あ》る方向から照らしつけるときに限り、非常にものすごく見えた。
「その半分のメダルを見せて下さい」
 彼はおぼつかない英語で、そういった。
 老商チャンは、客よりは上手な英語で応対した。彼は、今日はこの黄金メダルに、妙に人気が集っているのに気がついて、上機嫌であった。それと共に、彼はゆだんをしなかった。
 刀傷のある船員は、黄金メダルを何十ぺんとなく裏表をひっくりかえし、またチャンから拡大鏡《かくだいきょう》を借りて、念入りに全体を検《しら》べてみたり、掌《てのひら》にのせて重さを測ったりした。そのあとで、
「これいくらで売りますか」と、老商にたずねた。
「四十万円です」チャンは、こういうのは金持ではないから早く追払《おっぱら》うにかぎると思って、かんたんに返事をした。
「四十万円ですか。私、千二百ドルで買います。千二百ドルなら五十万円以上にあたります。あなた、いい商売します」
 客はそういって、ポケットから米貨の紙幣をチャンの前へ並べだした。チャンは、近頃こんなにびっくりしたことはない。
「待って下さい。この品物は、実はもう売約ができていまして、さしあげかねます」
「いくらで売約しましたか」
「それは、あの……」老商チャンは、まさか正直に二十万円とはいいだせなかった。
 客は、紙幣を並べおえた。
「私、五十万円に買う契約、さっき、あなたとしました。私、買います。五十万円の高値でこれを買う人、私より外にありません」
「よろしい。売りましょう」
 チャンは、ついにそういった。二十万円に売るよりも五十万円に売った方が二倍半の大もうけだ。売約したあの婦人には、手つけの二万円の外に、あと五千円か一万円つけて返せば、文句はないだろう。そう思った老商チャンであった。
 客は、黄金メダルの半ぺらを持って、店をでていった。チャンは、受取った紙幣をもう一度数えるのに熱中していた。
 それから七八分あとのことだったが、万国骨董商チャンフー号の店先を通りかかった一人の少年が、不意に立ちどまって、さけび声をあげた。
「うわーッ。これは血やないか。店の奥から、えらいこと血が流れてきよるがな」
 その声に、近所の人たちがおどろいてとびだしてきた。そしてチャンの店内へはいって、老主人の名を呼んだ。
 チャンの返事はなく、ただ籠の中で、小鳥がチチチと鳴いていた。
「どうしたんやろか、チャンさんは……」
「あっ、こんなところに倒れている」
 店の奥に、老商は朱《あけ》にそまって倒れていた。心臓の上にピストルで撃ったらしいひどい傷あとがあった。そしてそのまわりには、服の上に焼け焦げが丸くできていた。もちろんチャンは絶命していた。誰が、いつの間に、老商をこんなに冷い死骸《しがい》にしてしまったのであろうか。


   迷宮入《めいきゅうい》りか


 かわいそうな万国骨董商チャン老人殺しのニュースは、たちまちこの港町のすみずみまでひろがった。
「なんというむごたらしいことをする犯人だろう。あの老人は家族もなく、さびしく小鳥と住んで、あの店をやっていたのに、ああ気の毒だ」
 老人を見知っている人々の中には、こういってその死をいたむ者もいた。
「チャン爺《じい》さんは、あれでそうとうなもんだよ。こっちが売りに持っていった品物は二束三文《にそくさんもん》に値ぎりたおす。それをあとで磨きにかけて、とほうもない高値で、外国人などに売りつけるんだ。足もとにつけこむのは、得意中の得意さ。あんまりもうけすぎるから、こんどみたいな目にあうんだ」
 そういって、にくまれ口をきく者もいた。
「いや、それは商売上手《しょうばいじょうず》というものだ。そんなことでなにも爺さんは殺されることはないんだ。ああして殺されたのは、爺さんがひどいことして集めた宝石の中に、おそろしい呪《のろ》いのかかっているダイヤモンドがあったんだ。それは元、インドの仏像《ぶつぞう》のひたいにはめこんであったのを、ある悪い船のりがえぐり取って、盗んでいった。そしてそれをチャン爺さんに売りつけた。するとインドの高僧《こうそう》が船のりに化《ば》けてはるばる取返しにきたんだ。爺さんはすなおに返さなかったもんだから、あのように、えいッと刺し殺された」
「ちがうよ。ピストルで撃たれたんだ」
「あ、ピストルか。ピストルでもいいよ」
「ほんとかい、その話は」
「つまり、そうでもあろうかと、わしは考えたんだがね」
「なんだ。ひとが事件に熱中しているのをいいことにして、うまくかついだね」
「とにかく、あの爺さんは、叩《たた》けばほこりがでる人物だ。犯人は永久に分らないよ」
 たしかにそのとおりで、犯人の目星《めぼし》がさっぱりつかないので、この事件を担当している、秋吉警部《あきよしけいぶ》はいらいらしていた。
 彼は、チャン老人の絶命の三十分あとへ現場へついて、さっそく捜査の指揮をとったのであるが、血の流れている店内は、事件発見者の少年のしらせで駆けつけた近所の人たちによって、すっかり踏みあらされていた。犯人をつきとめるための証拠《しょうこ》が、これではつかめない。警部は困ってしまった。
 それに、チャン老人は、店内にひとり住んでいたので、当時の店内の様子を証言する者がいなかった。向う三軒両隣はあるけれど、今日はチャン老人が殺害されると分っているなら、老人の店に出入りする人物に注意を払っていたであろうが、そんなことはあらかじめ分っていなかったので、誰も正確に出入りの人物を証言する者がなかった。おそらく犯人は、そういう事情をのみこんでいて兇行《きょうこう》したのであろうと、秋吉警部は考えた。
 店内をしらべて、何が盗み去られたかを調査した。
 その結果が、またはっきりしないのであった。なにしろたくさんのこまごました物がある。その品物の目録《もくろく》などはなかったから、何と何とがなくなったんだか分らない。
 金庫は閉っていた。この中を調べたが、これもまたはっきり分らない。金庫の中には、日本の紙幣やアメリカの紙幣などがしまってあった。これだけが有金全部《ありがねぜんぶ》であったのか、それとも犯人はその一部を盗んでから、金庫を閉めて逃げたのか、どっちとも分らなかった。
 かれ秋吉警部には興味のないことであったが、読者には興味のあることがらを、ここで一つ述べておこう。それはアメリカの紙幣で千二百ドルがそっくりそこに残っていたことである。これは犯人がどういう種類の人物であるかを判断するのに、一つの参考となる。――秋吉警部は、気の毒にも、そのような資料をつかむ機会にめぐまれていないのだ。
 そこで警部の注意力は、もっぱらチャン老人の致命傷《ちめいしょう》と彼の死んでいた場所とその身体の恰好《かっこう》にそそがれた。
 ピストルで心臓のまん中を見事に撃ちぬかれたのが、老人の死因だった。老人は声もたてずに死んだのであろう。
 ピストルは老人の胸に向けられ、その銃口は老人の服にぴったりとふれていたにちがいない。その状況で、ピストルは発射されたのだ。だから銃口のあたっていた服には穴があいており、その穴のまわりの服地は、焼《や》け焦《こ》げになっていた。
 ピストルの弾丸《たま》は、背中をうちぬき、うしろの壁かざりをつきぬけ、壁にめりこんでいた。それを掘りだして調べてみたところ、そのピストルは、よく普通に見かけるブローニングやコルトのものではなく、口径《こうけい》のずっと小さい特殊のものだった。それは多分ピストルの形をしないで、他の物品に似せて作ってあるもののように思われた。たとえば万年筆の形をしたピストルだとか、扇子《せんす》の形をしたピストルだとかを、暗殺者はよく持っているが、そんな風なものにちがいない、そういう物品に似せるためには、どうしても弾丸の口径を細くしなければならない。自然《しぜん》、火薬も少量しか使えないので、そういうピストルは、殺す相手の身体にぴったりとつけて発射しないと、弾丸が身体の中へはいらない。
「犯人は、只者《ただもの》じゃない。チャン爺さんを殺すことなんか、鶏《にわとり》の首をしめるほどにも感じなかったんだろう」
 警部は、そう思って慄然《りつぜん》とした。
 老人は、帳場の台をへだてて、客と向いあっていたらしい。それから老人は、奥へゆこうとして身体をすこし曲げた。そのときすばやく犯人が握っているピストルが老人の心臓を服の上からねらい、直《ただ》ちに引金がひかれたのにちがいない。老人の死顔には苦悩のあとも恐怖の表情もなく、おだやかな顔であった。そしてそのままそこに倒れると傷口からは血がとめどもなくふきだし、ついに店前まで流れていったのだと思われる。
 それから犯人はどうしたか。それがさっぱり分らない。何か目星をつけてきたものがあって、それを取出して、すばやく逃げうせたものか、それとも老人を斃《たお》しただけで、すたこら逃げだしたものか、なんとも分らない。このへんで秋吉警部の捜査はゆき詰ってきたのであった。
 しかたがないので、警部は、各署や水上署《すいじょうしょ》までに通告して、チャン老人殺しに関係あるあやしい人物があったら知らせてもらいたいとたのんだ。こんな方法では、運をたのむようなものだ。しかし証拠物が集らないし、事件の目撃者もあらわれないのだから、こんなことでもする外《ほか》なかった。
 水上署には、外国船員にも気をつけてくれるように特に依頼した。だが、外国船員にあやしい者があっても、これを検挙するまで
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