「さあ、ぼくの方が早いか。それとも牛丸君が勝ったか。なにしろ牛丸君は、この土地に生れた少年だから、山の勝手《かって》はよく知っている。だから、ぼくはかなわないや」
 春木の方は、そういうわけで自信がなかった。
 ところが、実際は春木の方が、ずっと先についたのであった。
 牛丸少年の方は、途中《とちゅう》で手間どっていた。というのは、東道では、途中で丸木橋《まるきばし》が落ちていて、そのため彼は大まわりしなくてはならなかった。本当は、東道の方が近道だったのだけれど、思いがけない道路事故のため、牛丸は春木清よりも、三十分もおくれて現場《げんば》につくことになったのだ。
 そして三十分もおくれたことが、二人の少年の運命の上に、たいへんなちがいをもたらした。それは一体どういうことであったか。春木少年は、何事も知らず、生駒の滝の前へついて、
「しめた。ぼくの勝だ。牛丸君は、まだついていないじゃないか」
 と、ひとりごとをいって、あたりを見まわした。滝は、大太鼓《おおだいこ》をたくさん一どきにならすように、どうどうとひびきをあげて落ちている。春木は帽子《ぼうし》をぬいで、汗をぬぐった。紅葉《もみじ》や楓《かえで》がうつくしい。
「おやッ」少年は目をみはった。
 滝をすこし行きすぎた道の上に、誰《だれ》か倒れているのであった。黒い洋服を着た男であった。
(どうしたのだろう)
 様子がへんなので、清はおそるおそる、そのそばに近づいた。すると、いやなものが目にはいった。うつむいて倒れているその洋服男のかたく握りしめた両手が、まっ赤であった。血だ。血だ。
「死んでいるのか?」
 少年が、青くなって、再び瞳《ひとみ》をこらしたときに、洋服男の血まみれの手が少し動いて、土をひっかいた。


   重傷の老人


「あ、あの人は生きているんだ」春木少年は叫んだ。
 叫ぶと、そのあとは、おそろしさも何も忘れて、血染《ちぞ》めの洋服男のそばにかけより、膝《ひざ》をついて、
「もしもし。しっかりなさい。どうしたのですか。どこをやられたのですか」と、呼びかけた。
 そのとき少年は、この血染めの人が、かなりの老人であることを知った。顔に、髭《ひげ》がぼうぼうとはえ、黒い鳥打帽子《とりうちぼうし》がぬげていてむき出しになっている頭髪《とうはつ》は、白毛《しらが》ぞめがしてあって、一見《いっけん》黒いが、その根本のところはまっ白な白毛であった。鳥打帽子がぬげているそばには、茶色のガラスのはまった眼鏡《めがね》が落ちていた。
 老人は、苦しそうに顔をあげて、春木の方へ顔をねじ向けた。が、一目春木を見ただけで、がっくりと顔を地面に落とした。全身の力をあつめて、自分に声をかけた者が何者であるかをたしかめたという風であった。
 老人は、うんうん呻《うな》りはじめた。
「しっかりして下さい。傷はどこですか」
 と、春木はつづいて叫びながら老人を抱《いだ》きおこした。
 分《わか》った。老人の胸はまっ赤であった。地面《じめん》におびただしく血が流れていた。傷は、弾丸《だんがん》によるものだった。左の頸《くび》のつけ根のところから弾丸《たま》がはいって、右の肺の上部を射ぬき、わきの下にぬけている重傷であったが、春木少年には、そこまではっきり見分ける力はなかった。しかし傷口《きずぐち》があることは彼にもよく見えたので、そこを早くしばってあげなくてはならないと思った。
 しばるものがない。繃帯《ほうたい》があればいいんだが、そんなものは持合わせがない。
 どうしようか。そうだ。こうなれば服の下に着ているシャツと、それから手拭《てぬぐい》とを利用するほかない。春木少年は実行家《じっこうか》だったから、そう決心するとまず老人を元のようにねかし、それから急いで服をぬぎすて、縞《しま》のシャツをぬぐと、それをベリベリと破って長いきれをこしらえ、端と端とつなぎあわせた。手拭もひきさいて、それにつないだ。
「これでよし。さあ出来た。おじさん、しっかりなさい。傷口に仮《か》りの繃帯をしてあげますからね」
 そういって春木は、再び老人を抱きおこして、上向《うわむ》きにした。
 老人は口から、赤いものをはき出した。胸をやられているからなのだ。少年は、絶望の心をおさえ、老人をしきりにはげましながら、傷口をぐるぐる巻いてやった。
 その間に、老人は苦しそうにあえぎながら、目をあけたり、しめたりしていたが、少年がしてくれた傷の手当がすんで、しずかに地面にねかされたとき、
「あ、ありがとう。か、神の御子《みこ》よ……」
 と、しわがれた聞きとれないほどの声で、春木少年に感謝した。そのとき老人ののどが、ごろごろと鳴って、口から赤い泡立ったものがだらだらと流れだした。
「ものをいっては、だめです。おじさんは、胸
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