上って、手をふって、上のヘリコプターへ、合図《あいず》のようなことをした。ヘリコプターの胴の窓からも、一人の男が上半身を出して、下へ手をふって合図した。
 下の男は、分ったらしく、合図に両手を左右へのばした後で、ロープの端を手にとって、戸倉老人に近づくと、老人の身体をロープでぐるぐる巻きにしばりつけた。
 それから自分は、老人よりもロープの上の方にぶら下った。
 それが合図のように、ロープはぐんぐんヘリコプターの方へ巻きあがっていった。ヘリコプターは、宙に浮いて、じっとしている。この有様を、牛丸少年は、あっけにとられて柿の木の上から見ていた。
 ところが、とつぜん作業衣の男が、片手をはなして、牛丸少年の登っている柿の木を指《さ》した。と、ぱっと強い探照灯の光が牛丸少年の全身を照らしつけた。
「うわッ。たまらん」牛丸平太郎は生れつきものおじをしない楽天家であったが、このときばかりは、もう死ぬかもしれないと思った。彼は目がくらんで、呼吸《いき》をすることができなくなった。彼は懸命に、両手と両足で、柿の木の枝にしがみついていた。目は、全然ものを見分ける力がなくなった。
「柿の木の上で、目はみえず」
 ヘリコプターの音が遠のいていったのが分ったとき、牛丸は、ひとりごとをいった。俳句になるぞと思った。
 このとき、ようやくすこしばかり、ものの形が見えるようになった。
「ひどい目にあわせよった」
 彼は、そろそろと柿の木から、すべり下りていった。
 牛丸少年は、滝の前に、小一時間もうろうろしていた。もうまっくらな中を、あたりを探しまわった。
「おーい。春木君やーい」と、何十ぺんも、友だちの名を呼んでみた。しかしその返事は、彼の耳に聞えなかった。その間に、彼は、倒れていた人のあとへも行ってみた。そこには、血の跡らしいものが黒ずんで地面を染めているのを見た。
「誰だろう、ここに倒れていた人は」
 彼には事情が分らなかった。
 ヘリコプターで救助作業をやったのかもしれないが、しかしその前に、はげしい銃声のようなものを聞いた。それを聞きつけたから、彼はびっくりして柿の木へ登ったのだ。彼は後で考えて、「ぼくは、あのときは、なんてあわてん坊であったろう」と苦笑したことだった。
 いつまでたっても、春木君がやってこないので、一時間ばかりたった後に、牛丸少年は、ひとりで川を下りていった。
 牛丸はなんにもしらなかった、ここにふしぎなことがあった。それは、戸倉老人の身体からはなれてとび散らばっていた老人の帽子も眼鏡も、共にそのあとに残っていなかったことである。
 それにしても、重傷の戸倉老人を拾っていった、ヘリコプターに乗っていた者は、何者であったろうか。
 老人を救助に来た者だとは思われない。もし救助に来た者ならば、老人は春木少年の前であのように恐怖してみせるはずはないのだ。
 すると、あのヘリコプターは、戸倉老人のためには敵手《てきしゅ》にあたる連中が乗っていたものであろうか。
 この生駒の滝を背景とした血なまぐさい謎《なぞ》にみちた一幕《ひとまく》こそ、やがて春木清が少年探偵長として全世界へ話題をなげた奇々怪々なる「黄金《おうごん》メダル事件」へ登場するその第一幕であったのだ。


   穴からの脱出


 岩かげの穴の中に落ちこんだ春木少年は、まだ牛丸君がその附近にいた間に、われにかえることができた。
 彼は、牛丸君が自分を呼ぶ声をたしかにきいた。そこで彼は、穴の中で返事をしたのである。いくども牛丸君の名を呼んで、自分がここにいることを知らせたのである。しかし牛丸君は、ほかの方ばかりを探していて、春木が落ちこんでいる穴の上には近よらなかった。
 そのうちに牛丸は、あきらめて、生駒の滝の前をはなれ、ふもとへ通ずる道をおりていった。
 あとに残されて穴の中にひとりぼっちになった春木のまわりはだんだん暗くなってきた。彼は、お尻をさすりながら、あたりを見まわした。
「あッ、あの球《たま》だ」彼は、そばに戸倉老人の義眼《ぎがん》が落ちているのを見つけると、あわてて拾いあげた。
「何だろう。ふしぎなものだなあ。おやおや、目玉みたいだぞ。こっちをにらんでいる。ああ気味《きみ》がわるい」
 あまり気味がわるいので、彼はそれをポケットの中へしまった。
「さあ、なんとかして、この空《から》っぽの井戸からあがらなくては」
 見ると、空井戸《からいど》の底には、横向きの穴があった。人間がやっとくぐってはいれるほどの穴だった。しかし、気味がわるくて、春木ははいる気がしなかった。彼は立上った。そして上を向いていろいろとしらべてみたが、そこには上からロープもなにも下っていなかった。深さは十四五メートルらしい。
「土の壁が上までやわらかいといいんだがなあ。そしてなにか土を掘るもの
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