動こうとも見えなかった。
そのときどこからともなく部屋のうちに、シュウシュウという、なにかパイプから蒸気の洩れるような音が聞えてきた。
まっさきに夫人がそれに気がついた。彼女の紅をさしたしなやかな指が我と我が円き喉をしめつけた。
「ああッ、毒ガスだ。なぜわたしまで殺すのです。ううーッ、ここを開け――開けて下さい」
灰白色の毒ガスはプスと低い音をたてて、床の上を匍い、霧のように渦をまいて、だんだんと高く舞いのぼってゆくのであった。夫人の喉笛あたりが、みるみる真紅になっていった。細い五本の指も赤く染まっていった。そしてその赤い雫は胸の白い煉絹の上にまで飛び散っていった。夫人は蒼白な顔をして荒々しい呼吸に全身を鞴《ふいご》のようにはずませていた。
博士コハクは灰白色の毒ガスの中に、まるで塑像のように立っていた。夫人の苦しむ姿も目に入らぬようであった。なにかしきりと考えこんでいるようにも見えた。
が、突然歩きだした。室内をクルクルと栗鼠《リス》のように走りだした。そして四方の壁の表をしきりと探しているふうに見えた。
この室内の光景は、外部からもテレビ受影機をとおして手に取るように見
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