動こうとも見えなかった。
 そのときどこからともなく部屋のうちに、シュウシュウという、なにかパイプから蒸気の洩れるような音が聞えてきた。
 まっさきに夫人がそれに気がついた。彼女の紅をさしたしなやかな指が我と我が円き喉をしめつけた。
「ああッ、毒ガスだ。なぜわたしまで殺すのです。ううーッ、ここを開け――開けて下さい」
 灰白色の毒ガスはプスと低い音をたてて、床の上を匍い、霧のように渦をまいて、だんだんと高く舞いのぼってゆくのであった。夫人の喉笛あたりが、みるみる真紅になっていった。細い五本の指も赤く染まっていった。そしてその赤い雫は胸の白い煉絹の上にまで飛び散っていった。夫人は蒼白な顔をして荒々しい呼吸に全身を鞴《ふいご》のようにはずませていた。
 博士コハクは灰白色の毒ガスの中に、まるで塑像のように立っていた。夫人の苦しむ姿も目に入らぬようであった。なにかしきりと考えこんでいるようにも見えた。
 が、突然歩きだした。室内をクルクルと栗鼠《リス》のように走りだした。そして四方の壁の表をしきりと探しているふうに見えた。
 この室内の光景は、外部からもテレビ受影機をとおして手に取るように見えた。一方の壁付にミルキ夫人が苦悶している。博士コハクは狂人のようにクルクル走りつづけている。
 テレビ受影機をジッと覗きこんでいるのはミルキ閣下と女大臣アサリ女史だった。二人は彼の室内の模様がいかに移りかわってゆくかについて異常な興味をつないでいた。
 ただ二人は、間もなく眼の危険を悟った。テレビ受影機のスクリーン一杯に、博士コハクの顔が写った。とうとう送影機のレンズを見つけられてしまったのだ。はたして次の瞬間博士が椅子を目よりも高く振りかぶると見る間に、スクリーンは鏡のようにひらめき、次いで映像がストンと消えてしまった。
 二人はかわるがわる受影機の前に立って、目盛盤を廻してみたが、スクリーンの上にはふたたび何の影も現われなかった。室内の様子をうかがうテレビの器械は完全に破壊されてしまったのである。ミルキ閣下と針金毛のアサリ女史は目と目とを見合わせた。
「見えなくなった。どうしたらいいだろう」
「もう見えなくてもようございますよ。二人とも死んでしまうことは、もう明らかでございますからネ」
「きっと死ねるかネ、アサリ女史」
「問題はありませんわ」
 そういっているとき、ミルキ夫人の室
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