れをおどろかせた如《ごと》く、今日こそ幽霊というものを科学的に見直す必要があると――或る人がいっているんですがね」
「そんなことをいう奴は、よろしく箱根山を駕籠《かご》で越す時代へかえれだよ。蜂矢君、もし幽霊がでなかったら、君にはいいたいことがたくさんあるよ」
「そのときつつしんで拝聴しましょう。しかしその反対に幽霊がこの部屋にでてきたら、賭は僕の勝ですよ。そのときは課長ご秘蔵の河童《かっぱ》の煙管《きせる》を頂きたいものですがね」
河童の煙管というのは、課長が引出に入れて愛用している河童の模様をほりつけた、江戸時代の煙管のことであった。
「河童の煙管でも何でもあげるよ、君が勝ったときにはね」
「それは有難い。課長あなたの河童の煙管の雁首《がんくび》のあたりまでがもう僕の所有物にかわったですよ」
「なに、煙管の雁首がどうしたと……」
「しッ」と蜂矢が田山課長に警告をあたえた。「しずかに、そしてあなたの机の前の空間をよく見てごらんなさい」
「えっ!」
課長の目は、蜂矢から教えられたとおりに部屋の中央に据《す》えてある自分の大机の方へ向けられた。と、彼の眼は大きく見はられた。そして顔が赤くなり、それからさっと青くなり息がはずんできた。額からは玉の汗がたらたらとこぼれおちた。
見よ、大机の上に、ぼんやりしてはいるが、見なれない女人の姿がおっかぶさっている。若い女人のようだ。服はぼろぼろに破れてみえる。
部屋のうちは、水をうったように静かであった。が、それは何人も少しの時間をおいてほとんど同時に雪子学士の幽霊の姿を認め、そして同様なる戦慄《せんりつ》におそわれて硬直したためだった。
その幽霊に対し最も近い距離に席をとっていた古島老刑事は最も幽霊の発見がおそかったようである。その証拠に彼は大きな懐中時計を掌《てのひら》にのせて指針の動きに見とれ、首を亀の子のようにちぢめていたが、そのとき隣にいた山形巡査が古島の袖をひいて注意をしたので、それで始めて首をのばし顔をあげて指さされる空間へ視線を送ったが、
「あっ、でた、幽霊が……」
と叫ぶなり、老刑事の顔色はたちまち紙のように白くなり、そして彼の身体はそのままずるずると椅子からずり落ちて、彼の頭は机の下にかくれてしまった。それをきっかけのように、部屋のあちこちで、驚愕《きょうがく》と恐怖の悲鳴が起った。
そのうちに、雪子学士の姿はだんだん明瞭度を加えた。そして彼女のしなやかな手が課長の卓上にのびて研究ノートの頁《ページ》をぱらぱらと音をさせて開いた。それは急いでなされた。全部の研究ノートが二三度くりかえし開かれたが、彼女の硬い顔はいよいよ硬さを加えた。彼女はついにノートの表紙を手にもって強くふった。それは何か彼女のさがしもとめているものが見つからないので、じれているという風に見えた。
彼女はついに手を研究ノートからはなした。そして困り切ったという表情で、机上に立ちつくしていた。
そのときだった。室内に靴音がひびいた。
と、田山課長の姿が走った。彼は自分の席に戻って、雪子学士に向きあった。
「あなたは木見雪子さんですか」
課長は、いささかふるえをおびた声でぼんやりした雪子の姿に呼びかけた。
それに対して、雪子は返事をしなかった。課長のいっている言葉が聞えないのか、それとも聞えても知らないふりをしているのか、そのどっちか分らなかった。――が、雪子学士は課長を睨みすえると、研究ノートの山を指《ゆびさ》しそして両手を前につきだした。何かを催促しているようだった。
課長は胸をぎくりとさせたが、強いて平気をよそおい、首を左右にふった。
すると雪子学士の面に焦燥《しょうそう》の色があらわれた。彼女は大きく眼を見開き、室内をぐるっと一めぐり見わたした。と、彼女は課長の机の前をはなれて、すたすたと室内を歩きだした。その行手に大金庫があった。――一同は固唾《かたず》をのんで、雪子の行動に注目した。
雪子学士は、果して大金庫の前でぴたりと足をとめた。彼女の顔が心持ち喜びにゆがんだようであった。それから次に、意外な事が起こった。雪子学士は、その大金庫のハンドルに手をかけると、その大金庫をかるがると引っぱりだしたのであった。約四百キロはあるはずの大金庫が、雪子学士の手にかかると、まるで紙やはりまわした籠《かご》のように動きだした。そして雪子の姿と大金庫とは、窓の向うに滑りだしたのであった。
「待てッ」
呆然《ぼうぜん》とこの場の怪奇をながめつくしていた幽霊係の助手の山形四段が、雪子の姿を追って後から組みつこうとしたが、それは失敗し、彼はいやというほど窓際の壁にぶつかって鼻血をたらたらとだした。
そのさわぎのうちに、雪子の幽霊と大金庫はゆうゆうとこの部屋から姿を消し去った。
「あっ、しまった。大切な証拠物件を何もかもみな持っていかれた。うむ」
と課長はようやく一大事に気がついたが、もうどうしようもなかった。
幽霊の賭は、遂に課長の負となり、蜂矢探偵が勝ったわけである。その蜂矢探偵の姿はいつの間にかこの部屋から消え失せていた。
大金庫やーい
「おい、何をしとる。早く金庫をとりもどさんか」
田山課長は、室内をあっちへ走りこっちへ走り、両手をうちふってわめきたてる。
「ところが、とりもどしたいにも、大金庫はどこへいったか分らんのです」
「そこの壁の中へ、すうっと入っていったがねえ。幽霊が、こんな手つきをして引っぱっていったが……」
「ばかなッ」課長は怒りにもえて課員をどなりつけた。
「そんなばかばかしいことがあってたまるか、大金庫は硬くて大きいんだぞ。それが壁の中へ入るなんて、そんなことは考えられん」
「いや、課長、たしかにすっと壁の中へ入っていったです。私はそれを追いかけていって、このとおり壁で鼻をいやというほどつぶしてしまいました」
金庫番の山形は、鼻血をだして赤く腫《は》れあがった自分の鼻を指した。
「そんなことはない。君たちは、そろいもそろって眼がどうかしているんだ。もっとよくそのへんをさがしてみるんだ」
課長はますますいきりたった。
「ですが課長。あの重い大金庫がそうやすやすと動くはずがないんです。移動するにはいつも十人ぐらいの手がかかるんですからね。――ところが、ごらんのとおり、大金庫のあったところはぽっかりと空《あ》いています。わけが分らんですなあ」
「なるほど、たしかにさっきまでここに大金庫があったわけだが、今は無い!」
「課長! 重要なことを思いだしました」
といって課長の腕をとった課員がいた。
「なんだ。早くいえ」
「この前、木見の家の研究室で私が聞いたことですが、あの女の幽霊は、あつい壁でも塀でも平気ですうすう通りぬけていったそうですぞ。だから今もあの幽霊は、この壁を通りぬけて外へでていったのじゃないかと思うんです」
「しかしあの大金庫が壁を通るかよ」
「通るかもしれませんよ。この前のときは、あの幽霊は本をさらって小脇に抱えこんだまま、壁をすうっと向うへ通りぬけましたからね。だから、あの幽霊の手にかかった物は何でも壁を通りぬけちまうんではないでしょうかね」
と、その課員はなかなか観察の深いところを見せた。
「本当かな」
課長は半信半疑であったが、外にいい手がかりがちょっと見あたらないものだから、彼は部下に命じて外をあらためさせた。
気の強い課員が先頭に立って、扉をあけて外へでてみた。そこには非常用の梯子《はしご》がついていて、この三階から中庭にまで通じていた。下を見まわしたが何にも見えない。
それでは上かなと思って、念のために上を向いてみたが、暮れゆく空には、高いところに断雲がゆっくり動いているだけで、やはり何も見当らなかった。
「どうだ。見つかったか」
課長も、課員と共に外へでてきた。
「だめです。幽霊のゆの字も見えません」
「壁を通りぬければたしかにこっちへでてこなければならんのですがね」
さっきの課員が、そういって首をかしげた。
「幽霊も大金庫も壁の中に入ったまま、まだ外へででこないんじゃないかな」
「おい気味のわるいことをいうな。そんなら僕の立っている壁ぎわから幽霊のお嬢さんが顔をだすという段取になるぜ」
急いで壁のそばからとびのく者があった。
外をしらべ切ったが、手がかりは全くないと分ると、課長の心には、大金庫を重要書類と共に失ったことが大痛手としてひびきつづけるのであった。
(万事休した。一体どうすればいいのか)
さすがの田山課長も、にわかに自分の目が奥へ引っこんだように感じ、力なく課長室へ引きかえした。
室内はがらんとしていた。課員はみんな外へでているからである。しかしただ一人課長の机の前でのんきそうに煙草をふかしている者があった。誰だ、その男は? あいにく室内は暗くて顔を見さだめにくい。
「課長さん。賭は僕の勝ですね。あなたの秘蔵の河童《かっぱ》のきせるは僕がもらいましたよ」
そういった声は、蜂矢探偵に違いなかった。課長は舌打ちをした。
「おい蜂矢君、君が幽霊なんか引っぱりこむもんだから、たいへんなさわぎになったよ。大金庫まで持っていっちまったよ、あの幽霊に役所の重要物件まで持っていかせては困るじゃないか、君」
「待って下さい課長さん。お話をうかがっていると、まるで僕が幽霊使いのように聞えるじゃないですか」
蜂矢探偵はにが笑いと共にいった。
「正に君は幽霊使いだとみとめる。君のお膳立《ぜんだて》にしたがって、あのとおりちゃんと現われた幽霊だからね。なぜ君は幽霊を使って役所の大切な大金庫を盗ませたのか」
「冗談じゃありませんよ、課長さん。幽霊使いなんてものがあってたまるものですか。はははは」
と蜂矢は笑ったが、そこで言葉をあらためて、
「木見学士が大金庫を持ちだしたわけは、課長さんがよくご存じなんでしょう。あの大金庫の中には、木見学士が非常にほしがっているものが入っていたのです。あなたは、僕に相談なしに、まずいことをしました。だから原因はあなたにあるのです」
この蜂矢のことばに、課長は何もいうことができなかった。正にそのとおりだ。
蜂矢は椅子から立上ると課長の机上から木見学士の研究ノートの包をとり、さよならを告げた。
「大金庫はやがてかえってくるでしょうから、心配はいらないでしょう」
蜂矢は、こんなことばをのこしていった。
ふしぎな盗難
捜査課で保管していた重要物件が入っている大金庫を奪われてしまったので、田山課長はその善後処置に苦しんだ。
課員たちも、家へかえるどころか、そのまま課長の机のまわりに集り、これからどうして大金庫を取りもどすか、総監へはどう報告をするか、捜査にさしつかえがおこるがそれをどうしたらよいかなどと、むずかしい問題について会議をつづけねばならなかった。
「とにかく壁をぶちぬいてみるんですね」
「いやそれはだめだ。それより全国へ手配してあの大金庫を探しださせるのがいい」
「そんなことよりも、さっき幽霊が大金庫を持ってどっちへいったか、その目撃者はないか、それを大急ぎで調べる事ですよ」
「そんなものを見たという者は、ただ一人も現われないよ、怪しげな雲をつかむような話だから、頼みにはならないよ」
「困ったねえ。これじゃ全く手のつけようがありゃしない」
一同は顔をあつめて、吐息《といき》をもらしあう外なかった。
と、そのときであった。突然室内に大音響が起った。がらがらとガラスが破れ器物がくだける音! すわ一大事件だ。爆弾がなげこまれたのであろうか。
一同は、反射的に、その大音響がした方へふりかえってみた。すると、東に面した硝子窓《ガラスまど》が大きく破れ、そこから冷たい夜気が流れこんでいる。その窓の下のところに並べてあった事務机や椅子がひっくりかえり、その中に見覚えのない大きな箱が、稜線《りょうせん》を斜《ななめ》にしてあぶない位置をとっている。
「おや。へんなものがあるぞ」
「あっ、そうだ。窓から飛びこんできたんだ」
「窓からとびこんできたって、ああ
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