そうか。あの通り硝子窓が破れているからねえ」
こわごわその大きな箱の方へ近づいて、目をぱちぱちやっていた刑事の一人が、このとき大きな声でさけんだ。
「あっ、大金庫だ。うちの課の大金庫だ。大金庫が戻ってきたんだ」
大金庫が戻ってきた?
「えっ、本当かな」
これを聞いた課長以下が、そこへとんでいってみると、なるほどさっき失った大金庫に違いない。
「やっぱり、うちの課の大金庫だ」
「ふうん。蜂矢のいったとおりだったね。蜂矢は大金庫がきっと戻ってくるといっていたが……」
よく調べてみると、金庫はほとんどさかさまになり、そして床を大きくへこませていた。厄介《やっかい》なことではあるが、とにかく大金庫が戻ってきたことは何よりありがたいというので、課員総出で力をあわせて、その大金庫をようやくまっすぐにおきなおすことができた。
「さあ、こんどは中身をしらべることだ。重要物件はどうなったかな」
「課長。大金庫の鍵はちゃんとかかっていますよ。この分なら大丈夫です」
「そうか。なるほど、ちゃんと鍵がかかっているな。よし、あけてみよう」
暗号錠と、そうでない錠でひらく鍵と二種類の錠前がつけてあったが、課長の手で試みると、どっちも正しくかかっていた。そこで大金庫の鍵は、順序どおりに、錠をはずしていって、やがて扉はうまく開いた。
金庫の中には、更に錠がいくつもついた小さい扉があったが、それらもまたちゃんとしていた。そしていよいよ重要書類と木見学士の研究ノートの間から抜いた『復元文献抄』の入れてある引出が、課長の手によってぬきだされ、中が改められた。
「あっ、入れてあったものが無い!」
課長の顔はおどろきのために、赤くなり、そして次に青くなった。
無い。たしかに入れてあったものがない。その引出に入れてあったはずの重要書類と文献抄とが見えないのだ。
でも、まことにふしぎである。この大金庫はちゃんと錠が下りていたのに。……するとあの幽霊はこの大金庫をあけるための鍵を持ち、暗号錠の暗号を知っていたのであろうか。
課長は、もしや外に入れ忘れたのではないか、大金庫内の棚の引出などを念入りにしらべてみた。だがその結果はやっぱり同じことであった。重要書類も文献抄も、この大金庫内には全く見えないのだ。
「困った。困った」
課長はがっかりして、椅子に腰を下ろした。他の課員たちも、長時間にわたる奮闘の疲れが急にでてきて、大事なものを抜き去られた大金庫のまわりへ、みんなへたばってしまった。
「幽霊が相手じゃ、全くやりきれないよ」
「仕方がない。われわれのやり方を、このへんでかえるんだな、今の調子じゃ、この事件はいつまでたっても解決しない」
「やり方を変えるというと、どうするんだ」
「幽霊の存在を認めて、それが何故に存在するかという研究から出発するんだ」
「そんなむずかしいことができるもんか」
「そうでもないよ。蜂矢探偵を講師によんで、彼から教わるんだ。彼はなかなか幽霊学にはくわしいらしい」
「われわれとしては、蜂矢に教えをこうなんてことはできないよ」
「でもそれではいつまでたっても解決の日がこない。どうしたら幽霊を逮捕することができるだろうか、誰か大学へいって相談してきたらどうだろうかね」
課員たちのこんな会話を、田山課長はただにがにがしく聞いていた。
幽霊活躍
雪子学士の幽霊は、大金庫事件以来、ひどくきげんを悪くしたらしい。
そのわけは、あれ以来、雪子学士の幽霊が町へしばしば現われて都民をおどろかせるのであった。
女幽霊の現われたところには、かならず器物の破壊がおこり、何か物がぬすまれ、そしてあつまってきた弥次馬《やじうま》がけがをするのであった。
銀座の薬局がおそわれたことがあった。それは白昼のことであった。
女幽霊は、きわめてぼんやりした姿を薬局の中に現わした。始め店の者はそれに気がつかず、お客の方で気がついた。もっともそのお客さんは、硝子張《ガラスばり》の調剤室の中で動いている女幽霊を幽霊とは思わないで、それはこの薬局の婦人薬剤師だと思ったので、外から声をかけたのであった。
だが、女幽霊のこととて、返事もしないでいたので、気の短いお客さんは憤慨して、奥からでてきた店主に向い、かの女薬剤師の無礼なことをなじったのであった。
そこで店主は、一体お客さんを怒らせているのは誰だろうと思い、いわれるままに調剤室の中をのぞきこんでみるとそこには店主の見もしらない婦人が薬品棚の前をあちこち見てまわっているので驚いた。
「もしもしあなたは一体どなたですか。私にことわりなしに調剤室へお入りになっては困りますね。そこには劇薬もあり、毒薬もあることですからねえ」
そういって店主は相手に近づいていった。ところが彼の足は、調剤室の中へ二三歩踏みこんだばかりで、釘づけになってしまった。それは、彼が今とがめた相手の婦人の姿が、まるで影のようにもうろうとしているばかりか、その顔がぞうっとするほどの苦悶《くもん》にみちていたからである。店主はそのけわしい幽霊の顔に見すえられて、息の根がとまるほどにおどろいた。
がらがらがらと音をたてて薬の壜《びん》が棚から落ちはじめたので、店主はようやくわれにかえり大声で救いをもとめた。それから大さわぎになった。店の中も店頭もめちゃめちゃになって、警官隊のかけつけたときには、足のふみ入れようもなかった。もっとも店頭がそんなにめちゃめちゃに壊されたのは、女幽霊が手を下したのではなく、このさわぎに乗じて、たちのよくない群衆がなだれこみ勝手なふるまいをした結果であった。
捜査課員の出張があって、この事件が、女幽霊の仕業《しわざ》だと分ったときには、さらに大きなさわぎとなった。
こんな事件が、つぎつぎと発生した。
恐怖と戦慄が、都下全体へひろがった。
女幽霊が、いつ侵入してくるかもしれない! 女幽霊はどんな厳重な戸締《とじまり》でも平気で入ってくる! 女幽霊をいくら追いかけても追いつけるものではない、なぜなら女幽霊は鉄の塀でも石の壁でもすうすうと向うへ抜けていってしまうからだ! 女幽霊に入られると、家の中がひっくりかえされる!
女幽霊の顔ときたら、般若《はんにゃ》よりもおそろしかった! 口が耳のところまで裂けていたそうな! すごい眼付で睨んで、のろいのことばをなげつけた! のろわれた者は、それから三日目に高熱を発して死んでしまった。
こんな風に、女幽霊についてあること無いことが入れ換って、噂《うわさ》となってとんだ。
それとともに、捜査課に対する非難の声が高まっていった。捜査課は一体なにをしているのか。こうたびたび都下にあらわれて、みんなに迷惑をかける幽霊を、なぜ逮捕することができないのか。一体あの女幽霊はどういう筋合いのものか、分っているだけのことでも早く都民へ知らせてくれたがいいではないか。幽霊の侵入を防ぐ最も有効な方法を至急研究して知らせてくれないと困るなど。
田山課長の顔は、ますます苦り切ってゆく。何日たっても、女幽霊に対して、これぞという解決も報告もできないのだ。しかるに新聞社の写真班が、女幽霊をうつそうとして競争で追いかけまわす、放送局では女幽霊の呻《うな》り声を録音して、実況中継放送をしますなどといいだすものだから、女幽霊の妙な人気は日毎《ひごと》に高くなる。それとともに捜査課はますますごうごうたる非難をあびることになり、田山課長以下の立場は今や極度に悪化した。
ちょうどその頃、女幽霊は何と思ったものか、突然或る夜更《よふけ》、道夫の枕許《まくらもと》へあらわれた。
当時道夫は、あれからずっと意識がもとへもどらない川北先生のつきそいをして、警察病院に足どめされていた。いわゆる軟禁というあれだ。道夫には、自分の両親との通信も許されていなかった。これは、川北先生を一日も早く正気にもどるように、道夫に努力をさせるためであった。川北先生がよくなれば、道夫はこの病院から解放されて家へ帰れる約束になっていた。
道夫は、寝台の中によく睡《ねむ》っていたが、突然胸苦しさを感じて目がさめた。すると枕許に誰か立っているのだった。
「道夫さん。起きて下さい。ぜひあなたの力を借りたいのよ」
道夫は、そんな風に話しかけられたように思った。そこで彼はがばとはね起きた。
「道夫さん。あたしといっしょにいっていただきたいところがあるの」
もうろうたる雪子学士は、そういって青白い手を道夫の方へのばした。
再会
なつかしい雪子姉さん――木見雪子学士の声だと気がついた道夫は寝台からむくむくと起上った。
すると道夫の眼に、雪子の姿がうつった。それははっきりした姿であった。雪子はやつれた顔を道夫に向けて、にんまり笑いかけた。
「雪子姉さん。どうしてここへこられたの。いつ帰ってきたの」
道夫はそういって、寝台からすべり下りると、雪子の方へかけよった。
「道夫さん、しばらくあたしにさわらないで……」
と、雪子はいって、横にとびのいた。
「え、どうして、なぜさわっちゃいけないの」
道夫は不満であった。
「そのことは、今に分るわ。とにかく気をおちつけて、あたしのいうことを聞き分けて下さいね。一生のお願いよ」
雪子の眼は大きく開かれ、悲しみの色をうかべて道夫を見つめた。
「あたしのことでみなさんがさわいでいるのでしょう」
「ええ、そうですよ。雪子姉さんの幽霊がでるといっています。ほんとうに雪子姉さんは幽霊なんですか。それとも生きているんですか」
「道夫さんはどっちと思いますか」
「ぼくは……ぼくは、雪子姉さんは幽霊じゃない。ちゃんと生きていると思うんだけれど……」
と、道夫はそういって、手をのばして雪子の身体にさわろうとした。
「いけません。道夫さん」雪子はきびしく叱《しか》って後へさがった。
「あたしが生きているかどうか、幽霊か幽霊でないか、そのことは今に道夫さんにくわしくお話をしますわ。それよりも今はとても大事なことがあるのよ。道夫さん。あたしをたすけて下さらない。あたしのお願いするところへいって、お願いすることをして下さらない」
「なんでもしますよ、雪子姉さんのためなら。……それに姉さんがそんなに困っているんなら、ほくの生命《いのち》をなげだしても助けますよ」
道夫は、そう答えた。雪子の話を聞いているうちに道夫は胸がしめつけられるように感じたのだ。かわいそうな雪子姉さんに、あらゆる力をさしだす決心がついた。
「ありがたいわ、道夫さん」雪子は手を口にあてて泣きじゃくった。「……で、急がねばならないのよ、道夫さん、いっしょにきて下さい。しかしすこし苦しい目をしなければならないのよ。いいかしら」
「いいですよ。大丈夫。苦しくても、ぼく泣かないよ。しかしどこへいくの」
「いけば分るの。そしてお願いだけれど、これからあたしと行動を共にすると、ずいぶんふしぎなことが次々に起るんだけれど、なるべくそれについて、いちいちわけをきかないようにしてね。でないと、いちいちそれをあたしが説明していると、かんじんの仕事ができなくなるんですものね。くわしいことは、あたしが救われて安全になった上で十分お話することにして、それまでだまって、あたしのさしずに従って下さいね。いいこと」
雪子の話によると、ふしぎなことがあっても何も聞いてくれるなというのだ。
「むずかしいんだね」
道夫はにが笑いをした。
「さあ、それではいきましょう。道夫さん、目をつぶっていて。そしてちょっとの間、苦しいでしょうけれど、がまんしていてね、あんまり苦しければ、そういってもいいことよ。でもなるべくがまんして下さるのよ。そして眼をあけていいわといったら、眼をお開きなさいね」
「分ったよ」
「そしてその間、あたしは道夫さんの身体を抱えているんだけれど、おどろいちゃだめよ。なんだか気味のわるい振動を感じるかもしれないけれど。……それからもう一つ、道夫さんの方から、あたしの身体にすがりついてはだめよ。これはきっと守ってね」
「面倒くさいんだなあ。ぼく、
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