いちいちそんなことおぼえていられないや」
 道夫はそういった。雪子には大切な注意事項なんだろうが、道夫にはただうるさいばかりである。
「そうよ。ですから、道夫さんは、ただあたしの命令にしたがってさえいればいいの、分るでしょう」
「はあん」
「じゃあ、眼をとじていますね。これからでかけるのよ。ちょっとの間、苦しいでしょうが、がまんしてね」
 道夫は、もう覚悟をして、おとなしくしていた。そのときふと気がついたのは、自分は今、川北先生のそばについているんだが、先生をほっておいて、また看護婦さんにもだれにもいいのこさないで、でかけてもいいのかどうかと反省した。
 だが、そのときはもうおそかった。道夫の身体は後から抱きすくめられた。異様な気持になった。

   怪しき気分

 そのときの身体の痛みも、ずいぶんたえ切れないものであったけれど、それよりも道夫を苦しめたものは、全身の骨に受けたなんともたとえようのない気持のわるい振動であった。
 ふだんは、自分の身体の中に骨があることは殆《ほと》んど感じないのであるが、そのとき道夫は全身をつらぬく、自分の骨が一せいにおどりだすように感じた。その骨は、一本ではなく、二百あまりの骨片が組立てられたものであるが、その二百あまりの骨片が、それぞれひとりでにおどりだしたのである。それとともに全身がへんな気持におそわれて、眼がまわった。それから胸がむかむかして、げろげろとやってしまった。
 その苦しさに、道夫は大きな声をだそうとしたが、なぜかでなかった。また、ちょっと身体をうごかしても、反射的にはげしい痛みが起った。それはまるで自分の身体を、刃物にこすりつけて引き斬るようであった。
 道夫は、低くうなりながら(それがせい一ぱいであった)その苦しみと痛みを相手にたたかった。一秒、二秒、三秒。道夫は、これは死ぬんじゃないかと思った。
 と、とつぜんすうっと身体が軽くなった。今までおどり狂っていた全身の骨片がぴたりとしずまった。あやしげな不気味が、夕立の後で雲が風に吹きとばされてしまったように、なくなった。身体が急に軽くなった。
「ああ、苦しかった」
 道夫は、ぱっと眼を開いた。
「あらあら、あたしが命令しないのに、眼をあいてしまったのね」
 と、雪子がいった。雪子は道夫のうしろからあらわれ、前にきた。
「雪子姉さんは、後からぼくをかかえていたんでしょう」
「ほら、きいてはいけないといったでしょう。そんなことは……」雪子はそういって、やさしく道夫をにらんだ。
「さあ、お話があるから、その椅子に腰をおかけなさい」
 そういわれて、道夫は気がつき、あたりをじろじろ見まわした。彼の顔に、大きなおどろきの色があらわれた。
「おや、どこだと思ったら、ここは雪子姉さんの研究室だ」
 いつの間にか、雪子の研究室へきていたのだ。病院からここまで、最短距離でいっても二十キロメートル近くあろう。その間を道夫は、どうしてここまできたのであろうか。どの道を通ってきたのであろうか。時間にしてものの十秒とかからなかったと思うのである。ふしぎなことだ。
「また、何かききたいんでしょう。今はいけませんよ」先を越して雪子が道夫にいった。「それよりもこれから重大なお話をします。それは四次元世界のことです」
「なに? それは……」
「四次元の世界のことよ。知っていますか、道夫さんは、四次元世界がどんなものであるかということを」
「ぼく、知らない」
 道夫は、なぜ四次元などというへんな名前のものを大事そうにかつぎだしたのか、気がしれなかった。それよりも今の問題、二十キロをどうして十秒ぐらいで走ったかその説明の方が聞きたかった。
「四次元世界のことから説いていくのが順序なのよ」雪子はそういった。「この話が分れば、幽霊というものが科学的に説明がつくんです」
「へえ、幽霊? 幽霊と四次元世界とかいうものとの間に関係があるの」
 幽霊と聞いて、道夫はひじょうに興味をわかした。幽霊問題は、このごろたいへんやかましい。そしてその幽霊の御本尊《ごほんぞん》というのが、外でもない、かれ道夫の前に、卓子《テーブル》をはさんで椅子に腰をかけている雪子姉さんなのである。
 雪子姉さんは、はたして生きているのであろうか、それとも幽霊なのであろうか。その謎をとくには今がいちばんいいときだと感じた道夫は、それとなく雪子の身体に注目の目をくばった。
(おやッ!)
 道夫は、心の中で、おどろきの声をあげた。それは、こうして眼の前に、椅子に腰をかけている雪子の姿は見えていて、たしかにそこに生きている雪子がいることが感ぜられるのにもかかわらず、よく気をつけていると、ときどき――それはほんのまたたきをするほどのわずかの時間ではあるが――ふいに雪子の姿が消えてなくなり、卓子のむこうにはただ椅子の背中だけが道夫に向いあっていることがあるのだった。道夫はそれに気がついてぞっとした。なんという気味のわるいことだろうか。
 ところがしばらくすると、その椅子に、前のとおりに雪子がちゃんと腰を下ろし、道夫へ向いて、さっきと同じような姿でいるのであった。しかも、そうして雪子が椅子の上にもどってきても、音一つするのではないし、雪子の表情もかわらず、まことにふしぎなことだった。
 しばらくすると、また雪子の姿が、道夫の眼の前からぱっと消えて、椅子の背中だけになってしまう。とまた雪子の姿があらわれるのであった。
 こんな奇怪なことがくりかえされるので、道夫は自分の神経がどうかしたのではないかと疑った。だが神経のせいではないらしい。雪子の姿がしきりに消えるときには、眼の残像現象の理により、雪子の姿と、雪子のかけている椅子の背中とが重なり合って、まるで雪子の身体がガラスのようにすいて見えるように感じられた。
「道夫さん。へんな顔をしているのね。分っているわ。あたしの姿がへんにぼやけて見えるからでしょう」
 ぼやけているというのでもない――と道夫がいおうとしたとき、雪子はいきなり立上って、隅の机の方へ歩いていった。そしてすぐこっちへもどってきたが、手には紙と鉛筆とを持っていた。
 何事かを説明するに、紙の上に書くつもりらしい。幽霊に文字が書けるであろうか。

   四次元世界

「道夫さんたちの住んでいる世界は三次元の世界よ。分って」
 雪子は道夫にきいた。
「分らないね」
「だって三次元よ。つまり、その世界にあるあらゆる物は、横と縦と高さがある。たとえばマッチの箱をとって考えると、横が五センチ、縦が四センチ、高さが二センチ位ね。つまり横、縦、高さという三つの寸法ではかられるものでしょう。人間でもそうだわ。横も縦も高さもあるわね。つまり三次元というと、立体のことなの。道夫さんの住んでいる世界は立体の世界なの。わかります?」
「わかるような気がするけれど……」
「まあ、わかるような気がするなんて、心細いのね。――二次元世界というとこれは平面の世界なの。そこには高さというものがなくて、横と縦とだけがあるの。ちょうど、紙の表面がそれね。これが二次元世界」
「立体が三次元、平面が二次元というわけだね。じゃあ一次元というのがあるかしら」
「もちろん有るわよ。それは長さだけがある世界のこと。高さはないし、横、縦の区別がなく、ただ長さだけがある世界。これが一次元世界。――そこで四次元世界というものを考えることができるでしょう」
「ああ、四次元世界!」
 と、道夫はわけのわからない四次元というものを思いだして、ためいきをついた。
「一次元世界は長さだけの世界なの。二次元世界では横の長さと縦の長さがある世界ですから平面の世界。その次は三次元世界となって、平面の世界に高さが加わり、横と縦と高さのある世界、つまり立体の世界だわね。分るでしょう」
「さっきから同じことばかりいっているよ」
「では四次元の世界はどんなものでしょうか。今まで考えたことから、次元が一つ増すごとに、新しい軸が加わっていく。立体の世界に、もし一つの軸が加われば、すなわち四次元世界となるわけ。さあ考えて下さい。想像して下さい。四次元の世界は、どんな形をもった世界でしょう」
「そんなむつかしいこと、わからないや」
 と、道夫はなげだしてしまった。
「そういわないで、よく考えてみてよ」
 雪子は、鉛筆のお尻で、卓子《テーブル》の上をこつこついわせながら、道夫の顔を見つめている。紙の上にはいつ書いたとも知らず、線と平面と、マッチ箱らしい立体との三つが書いてある。
 道夫は、雪子からきかれて困ってしまった。
「四次元世界なんて、どんな形だか、てんでわからないや」
「そうなのね。四次元世界はどんな形のところだか、それをいいあらわすことはちょっとむずかしいわけね。なぜむずかしいかというと、人間は三次元の世界に住んでいるからなの。三次元世界の者には、それよりも一つ上の次元の世界のことはわからないわけですものね。たとえば、いま平面の世界があったとして、それに住んでいる生物は、どう考えても立体世界というものが分りかねるの。それは平面世界には、高さというものがないから――高さがあれば平面ではなくなりますものね――だから立体というものを想像することができないの。無理はないわね」
 道夫は、すこし頭が痛くなった。紙の表面だけを考えると、これは平面世界だ。その世界に生物が住んでいるとする。
 その生物には、高さというものが分らない。なぜなら平面世界には、横と縦とがあっても、高さというものがないんだから。
 なるほど、よく考えると、わかる。
「それと同じように、立体世界、すなわち三次元世界に住んでいる者は、それより一つ高次の四次元世界を考えることができないわけなのね。どこまでかけだしていっても、要するに横と縦の高さの三つでできている世界であって、その上にもう一つの軸を考えることができないんですものね。別のことばでいうと、三次元世界の者は、三次元世界からぬけだすことができないために、もう一つの元がどんなものであるか、それを感ずることができない」
「もういいよ、その話は……」
「しかし、一次元世界があり、二次元世界があり、三次元世界があるものなら、四次元世界があってもいいし、さらに五次元、六次元もあっていい。つまり算数の理からいえば、そういえるわけね」
「算数は、考えるだけのことでしょう。それより、ほんとうにその四次元世界というのがあるのかどうか、それを知りたいなあ」
「それはあるのよ。ちゃんとあるのよ、四次元世界というものがね。それについてあたしは、ぜひ幽霊のお話をしなければならないの。あの幽霊というものは、四次元世界の者が、三次元世界に重なって、そしてできるところの『切口』であるという結論をお話しなければならないの。その方が、早わかりがしますからね」
「むずかしいお話はごめんだ。ぼくは雪子姉さんのように勉強もしていないし、あたまもよくないんだからね」
 道夫が悲鳴をあげた。
「まず、幽霊を科学的に証明しておかないと、あたしが今どんな危険なところに立っているか、それが道夫さんにわかってもらえないと思うわ。道夫さん、実はあたしは、その幽霊なのよ。今あたしは、四次元世界を漂流している身なのよ。助けて下さい。ぜび力を貸してあたしを助けだして下さい。一生のお願いですから……」
 と、雪子は姿もおぼろとなり、悲痛な声をはなって泣いて訴《うった》えるのだった。ああなぜ雪子学士は、四次元世界などに踏みこんで漂流するような身の上になったのか。

   幽霊の科学

 しずまりかえった真夜中のことだった。
 光もおぼろの下弦《かげん》の月が、中天にしずかにねむっていて風も死んでいた。
 ぼろぼろの服に身体を包んだ雪子学士のあやしい影が、机のむこうから、悲痛な顔つきでもって、一所けんめいに道夫少年をかきくどいているのだ。
「幽霊を見るのは気のまよいだといわれているでしょう。この世の中に幽霊なんてありはしないといわれているわねえ。でも、幽霊というものは、ないわけではないのよ。道夫さんは今あたしをたしか
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