こんなことは御存じでしょうが……」
「そんな講義はもうたくさんだよ」
「うまくいけば今夜のうちにもでるでしょう、うまくいかなくても二三日中にはきっとでます」
「もしでなかったときは、どうする」
「そのときは僕を逮捕なさるもいいでしょう。木見雪子学士殺害の容疑者としてでも何でもいいですがね」
「よし、その言葉を忘れるな」
「忘れるものですか」
 蜂矢は自信にみちた声とともに椅子から立上って、課長に別れをつげたが、ふと思いだしたように課長にいった。
「道夫君をかわいそうな母親のところへすぐ帰してやって下さい。あんなに病気にまでさせては人道問題ですよ」
 蜂矢の眼に涙が光っていた。

   奇妙な実験の準備

 なんという大胆な賭事であろう。
 蜂矢探偵は、かならず捜査課の室に雪子学士の幽霊を出現させてみせると、田山課長に約束したのであったが、蜂矢探偵は果して正気であろうか。課長を始め、課員の多くは、蜂矢探偵が一時かっとなって、そんな無茶な放言をしたのだろうと見ていた。だからその翌日になったら、探偵から取消と謝罪の電話があるだろうと予想していた。
 だがその予想に反して、その翌朝、捜査課の扉を押して、蜂矢探偵が大きな包《つつみ》を小脇にかかえて入ってきたのには、課長以下眼を丸くしておどろいた。
「やあお早うござんす。幽霊を釣りだす餌《えさ》をもってきましたよ」
 蜂矢探偵は血色のいい顔を課長の方へ向けて笑うと、包をぽんぽんとたたいてみせた。
「朝から人をかつぐのかね。いい加減にして貰おう。これでも気は弱い方だから……」
 田山課長は、挨拶《あいさつ》に困ったらしくて、こんなことをいった。
「今日は大変な御謙遜《ごけんそん》で。……ところでこの幽霊の餌を、課長の机の上におく事にしたいですね。まちがうといけないから、他の書類は引出《ひきだし》へでもしまって頂いて、机の上はこの餌だけをおくことにしたいですね」
 と、蜂矢はどしどしと説明をすすめた。
「仕事を妨害しては困るね」
 課長はにがにがしく顔をしかめた。
「仕事を妨害? とんでもない。木見雪子事件を解くことは、あなたがたにとって最も重要な仕事じゃありませんか。少くとも都民はこの事件の解決ぶりを非常に熱心に注目しているのですからね。なんなら今朝の新聞をごらんにいれましょうか、そこには都民の声として……」
「それは知っているよ。しかしこの部屋へ幽霊を招く?そんな非科学的なばかばかしい興行に関係している暇はないからね」
「その問題はすでに昨日解決している。今日になって改めてむしかえすのは面白くない。僕はちゃんと賭《か》けているのですからね。賭けている限り僕はこの試合場に準備を施す権利がある。そうでしょう。――もっとも幽霊学士を迎えるのは夕刻から早暁までの暗い時刻に限るわけだから、僕の註文《ちゅうもん》する仕度は、今日の夕刻までに完成して頂けばいいのです。窓のカーテンは皆おろしてもらいましょう。電灯はつけないこと。諸官はこの部屋にいてもよろしいが、なるべく静粛にしていて、さわがないこと。いいですね、覚えていて下さい」
「おい古島刑事、お前に幽霊係を命ずるから、蜂矢君のいうだんどりをよく覚えていて、まちがいなく舞台装置の手配をたのむよ」
 課長はついにそういって、老人の刑事に目くばせをした。
「はっ。だけど課長さん。これは一つ、誰か他へ命じて貰いたいですね。わしは昔からなめくじと幽霊は鬼門なんで……」
「笑わせるなよ、古島君。お前の年齢《とし》で幽霊がこわいもなにもあるものかね」
「いえ。それが駄目なんです。はっきり駄目なんで。……課長が無理やりにわしにおしつけるのはいいが、さあ幽霊が花道へ現われたら、とたんに幽霊接待係のわしが白眼をむいてひっくりかえったじゃ、ごめいわくはわしよりも課長さんの方に大きく響きますぜ。願い下げです。全くの話が、こればかりは……」
 古島老刑事はひどく尻込《しりごみ》をする。蜂矢探偵はにやにや笑ってみている。田山課長の顔がだんだんにがにがしさを増してきた。
「私が命令した以上、ぜいたくをいうことは許されない。ひっくりかえろうと何をしようと幽霊係を命ずる」
「わしの職掌《しょくしょう》は犯人と取組《とっくみ》あいをすることで、幽霊の世話をすることは職掌にないですぞ」
「あってもなくても幽霊係をつとめるんだ。もっとももう一人補助者として金庫番の山形《やまがた》君をつけてやろう」
「課長。よろこんで引受けます」
 柔道四段の猛者《もさ》の山形巡査が、奥の方から手をあげて悦《よろこ》ぶ。古島老刑事は、
「おい山形君。そんなことをいうが、大丈夫かい」
 とそっちを睨んだが、係が二人にふえたのにやや気をとりなおしたか、ほっと軽い吐息を一つ。
「じゃあ、これで手筈《てはず》はきまったですね」
 と蜂矢探偵は椅子から立上った。
「それではよろしく用意をととのえておいて頂くとして、僕はいったん引揚げ、夕刻にまたやってきます。それから課長さん。僕がここに持ってきた『幽霊の餌』は大切な品物ですから、盗難にかからないように保管しておいて下さい」
「盗難にかからないようにだって? 冗談じゃないよ、ここは捜査課長室だよ、君……」
 課長が眼をむいて破顔した。
「あ、これは失言しました。あははは、とんだ失礼を……」
 そういって蜂矢探偵は軽く会釈《えしゃく》すると、部屋をでていった。

   信用に背《そむ》く人

「課長さん。幽霊を本気でこの部屋へ呼びこむんですかね」
 古島老刑事は、蜂矢探偵の姿が消えると、さっそく課長の机の前へいって詰問した。
「もちろん幽霊なんてものを捜査課長が信ずるものかい。そんなことをすれば、たちまち権威がなくなってしまう。しかし蜂矢と約束した以上、一応その幽霊実験をやらねばならない。どうせ幽霊はでやせんよ。その上で蜂矢を一つぎゅっとしぼってやるのだ、ちょうどいい機会だからな」
「すると、やっぱり幽霊をこの部屋へ案内しなけりゃならないのですね。いやだねえ」
「でやしないというのに……」
「いや、わしは幽霊がでてくるような気がしてなりませんや。課長、その気味の悪い紙包の中には一体何が入っているんですか」
「さあ何が入っているかな、調べてみよう」
 課長は、蜂矢がおいていった紙包の紐をほどいて、机の上にひろげてみた。するとでてきたのは数冊から成る木見雪子学士の研究ノートであった。これは、木見邸に幽霊が現われるようになってから後に、誰が持去ったのか、研究室の卓子《テーブル》の上から消えてしまったものであった。しかし田山課長は、今そのことを思いだしてはいなかった。
「なんだかむずかしい数式をいっぱい書きこんであるね。これは何だろう。おやキミユキコと署名があるぞ。ふふん、するとこれは例の木見雪子の書いたものかな。一体何の研究をしていたんだろう。さっぱり分らんね、このややこしい数式、それから意味のわからない符号と外国語……」
 課長は、雪子の研究ノートを前にして、すっかり当惑してしまったかたちだった。
 が、しばらくして課長は気をとりなおして部厚い雪子学士の研究ノートの頁《ページ》を、ていねいに一頁ずつめくりはじめた。
 そこにならんでいる文章がいかに難解であろうと、頁をめくっているうちにはたまには課長に分る文句の一つや二つはあってもよさそうなものだと思ったので……。
 その課長の労は、ついにむくいられたといっていいであろう。というわけは、彼はその研究ノートの頁と頁との間にはさまっている、別冊の黄表紙のパンフレットを見つけたからである。そのパンフレットの表紙には、めずらしく日本語で表題が書いてあった。それは『消身術に於《お》ける復元の研究文献抄』と読まれた。
「ふうん――」
 課長はうなって、その表題に見入った。消身術に於ける復元――というのは何だろう。消身術とは身体を消して見えなくする術の事ではなかろうか。それは一種の忍術だ。妖術《ようじゅつ》である。こんなパンフレットを秘蔵しているところから考えると、木見雪子はそんな妖術の研究にふけったあげく、姿を現わしたり、隠したりしてあのふざけた幽霊さわぎをひきおこしたものではあるまいか。課長の眼はそのパンフレットの各頁の上を走りだした。
 文献の内容は、消身術に関するものではなくて、いったん人間が消身術をおこなってから後、もとのように人間が姿をあらわすにはどうすればいいか――つまりそれが復元ということであるが、その復元の研究について、古《いにしえ》から最近のものまでの文献が、番号をうってずらりと並べてあり、そして各項について読後の簡単な批評と要点とが書きこんであった。もしも課長が大学理科の卒業生だったら、そこに集められている文献が、この事件の謎を解く鍵の役目を果すものであることを見破ったはずであるが、課長はそうでなかったので、それほど昂奮はしなかった。しかしさすがに犯罪捜査の陣頭に立つ人だけあって、この黄表紙のパンフレットを重要資料とにらんで、それを研究ノートから引き放し、服のポケットへ入れたのであった。
 それからも課長の仕事はしばらく続いたが、やがて研究ノートの最後の一冊を見終ると、両手を頭の上にあげて背伸びをした。
「おい古島君。この書類を元のように包んでくれ。ひろげて中を見たということが分らないようにね」
 課長はむりな註文をつけて、幽霊係の古島老人に命じた。
「ああ、それから山形君」といって金庫番の柔道四段の青年を呼んでポケットから黄表紙をだした。
「このパンフレットを金庫の中にしまってくれ。他の重要証拠品といっしょにしてね、奥へ入れておくんだ」
「はい。金庫の一番奥へ入れておきます。三つ鍵を使わなければあかない引出へ入れます」
 課長は椅子から立上った。と同時に、もう幽霊事件のことは忘れてしまって、彼の注意力は他の捜査事件の方へ振向けられた。
 だが、課長が黄表紙のパンフレットを紙包から別にはなして、部屋の隅の大金庫へしまいこませたことは、せっかく蜂矢探偵が持ちこんだ大切な「幽霊の餌」を課長が勝手に処分したわけであり、そういうことは蜂矢探偵への信義を裏切ることにもなり、またやがて夕刻からおこなわれる雪子学士の幽霊招待の実験にも支障をおこすことになりはしないかと危ぶまれるのであった。

   出現の時刻

 古島老刑事は、さっきから、銀ぐさりのついた大型懐中時計の指針ばかりを見ている。
 もう夕刻であった。折柄《おりから》、空は雨雲を呼んで急にあたりの暗さを増した。ここ捜査課はいつもとちがい、この日は電灯をつける事が厳禁されていたので、夕暗《ゆうやみ》は遠慮なく書類机のかげに、それから鉄筋コンクリートを包んだ白い壁の上に広がっていった。
 課長の机の上には、雪子学士の研究ノートが数冊、積みかさねられてある。課長の椅子はあいている。課長の椅子の左横の席に、幽霊係の古島老刑事が、幽霊の餌の方を向いて腰をかけ、今も述べたように懐中時計の文字盤をしきりに気にしてびくついているのだった。その隣に、幽霊助手を拝命した猛者《もさ》山形巡査が、これは古島老刑事とは反対に、大入道であれモモンガアであれ何でもでてこい取押えてくれるぞと、肩をいからし肘《ひじ》をはって課長の机をにらんでいる。
 その他の席には、課員が十四五名、おとなしく席についている。しかし彼等は書類を見ているように見せかけてはいるが、実はそうではなく、いつでも課長の命令一下、その場にとびだせるように待機しているのだった。その中に課長の顔と蜂矢探偵の顔がまじっていた。隅っこの給仕席に二人は腰を下ろしているのだった。
「ほう、だいぶん暗くなって幽霊のでるにはそろそろ持ってこいの舞台になりましたよ」
 蜂矢探偵が、じろじろとあたりを見まわし、すぐ前にいる課長にいった。
「そんなことは無意味さ。原子力時代の世の中に非科学きわまる幽霊などにでられてたまるものか」
 課長は失笑した。しかしその声はいくぶん上ずっているように思われた。
「いや、とつぜん原子力時代がきてわれわ
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