には、すこしく皮肉のひびきがこもっていた。だが蜂矢探偵と呼ばれた長身の男はそれを気にとめない風で課長と肩を並べ、
「あの川北君は、僕と同郷の者で古くから親しくしていたのです。この間中から、しきりに僕に会いたがっていましたが、まさかこうなるとは思わず、もっと早く連絡をしてやればよかったですよ」
「本人はここで、君に何かしゃべったかね」
課長は話題を転じて叩きつけるようにきいた。
「いいえ、何にも……」と蜂矢は首を左右に振り「非常に体力を消耗していますよ。それに精神がすっかりさく乱している。正気にもどすにはちょっと手数がかかりそうですね」
「ふうん、厄介《やっかい》だな」
課長は警察医の黒川を手招きして、隅《すみ》に寝ている川北先生の方を指した。医師は心得て川北先生の枕頭に腰をおろした。村の青年二人がていねいに礼をした。
「おい君」と課長は成宗巡査を呼び「一切誰にも会わしちゃいかん。厳命だ」
「は、はい」
成宗は身体を縮めて、ちらりと蜂矢の方を見た。蜂矢は知らん顔をして、彼の助手のためにライターの火を貸してやっている。
「かべだ。かべだ。かべの中へぬりこまれちまった。あああッ……」
とつぜん川北先生がうわごとをいった。目をつぶっている。青い顔には玉のような汗がうき、長い頭髪がべっとりぬれて眉《まゆ》の方までのびている。黒川医師は目を大きくむくと川北先生の眼をみた。
「かべか。かべがどうしたというんだ」
課長と課員が、川北先生の枕頭をぐるっと囲んだ。川北先生の唇《くちびる》がぴくぴくとふるえるだけでもう声はでなかった。
「この病人はうわごとをさかんにいうのかね。ねえ君たち」
と課長は、村の青年にきいた。
「は。ときどきいいます」
「蜂矢さんが手帳に書きとめて居られましたです。蜂矢さんをお呼びしましょうか」
「いや、よろしい」
課長は首をかたくしていった。
「……流れる、流れる、流れる」
又もや川北先生がうわごとを始めた。
「うっ、苦しいとめてくれ、誰かとめてくれ。黄いろいスープのような……」
声はしゃがれて、あとは紫にそまった唇だけがわななく。
「黄いろいスープがどうしたんだ。これ川北君」
課長が先生の方へかがみこんで、先生の左手をとって振った。その手は生きている人とは思われないほど冷たかった。
「……道夫君、道夫君、……あははは、君は心配せんでよろしい。先生が、先生が……」
川北先生はうわごとをつづけた。
「これは駄目じゃね。ねえ黒川君」
「重態ですな。注射と滋養|浣腸《かんちょう》をやってみましょう。明日の朝までに勝負がつくでしょうな」
「どっちだい、君の見込みは……」
課長の問に対して黒川医師は口でこたえず、首を左右へふってみせた。
「どうです。課長さん。その道夫君というのをすぐここへ呼んでやったらどうでしょうかね」
「なに、道夫を呼ぶ」
課長は気色のわるそうな顔をしたが、眼を転じて部下の一人へ眼配《めくば》せした。
一週間
川北先生の生死が賭《か》けられたその翌朝となった。
先生はやっぱり苦しそうな呼吸をつづけていた。だが先生の心臓はとまらなかった。
「黒川君。あの川北は危機をとおりぬけたのかね」
前夜から、川北先生と共に農業会で一夜を送った田山課長が黒川警察医にたずねた。
「これならすぐ死ぬようなことはありますまい」
と、警察医は川北先生の脈をとりつづけながらこたえた。
「正気に戻るのはいつのことかね」
「さあ、それは全く不明です。もっと経過をみませんことには何ともいえませんな」
「ふうん」課長は不満の色を見せた。「とにかくこの男を絶対に死なせないように手当をしてくれ。ここじゃ困るから、すぐ東京へ移せないものかね」
「二三日様子を見てからにしましょう。すぐ動かすのは危険です」
「二三日後だね。よろしい。適当に宿直員をふやして懸命に保護を加えてくれたまえ。そしてもし変ったことがあったら、すぐわしのところへ報告するように」
「は、わかりました。で、課長は今日はお引きあげですか」
「うん、こんなところにいつまでも居るわけにいかん。それに、昨日ここへ呼んだ少年の話も興味があるから、この事件は従来の方針を改めて徹底的にしらべることにする。幽霊事件なんてものが、今どきこの東京にひろがっては困るからね。あの川北が発見されたのがきっかけとなって、昨日の夕刊今朝の朝刊、新聞社は大々的文字でこの事件を書きたてているじゃないか。幽霊が今どきこの世の中を大手をふって歩きまわるなんてことを本気になって都民が信ずるようになっては困るからなあ」
「それはそうですな。そういえば幽霊の存在を信ぜざる者は、この怪事件を解く資格なしなどという社説をだしている新聞もありましたね」
「けしからん記事だ。あの社説内容のでどころは、わしにはちゃんと分っている。誰があんな社説を流布《るふ》したか、わしは知っている」
「あははは。あの蜂矢探偵のことですか」
課長はそれにはこたえず不快な色を見せただけで黙っていた。
「実際蜂矢氏はすこしでしゃばりすぎますね。しかし仲々頭のいい人で、私立探偵にしておくのはもったいないほどだ。うちの課にもせめてあれくらいの人物が二三人……」
課長が吸いかけた煙草を灰皿の中にぎゅっと押しつけたので、黒川医は課長がかんしゃくを起したかとおどろいて言葉をとめた。
「幽霊を信ぜよなどという悪説を流布する者は、いくら頭がよくても、うちの課員にすることはできない」
課長はこの言葉を後に残して、部下たちをひきつれて本庁へ帰っていった。
幽霊説を蛇蝎《だかつ》のように嫌う一本気の田山課長が爆発させたかんしゃく玉はそれからこの事件の捜査を、以前とはうってかわった真剣なものにした。
木見邸にはいつも数人の警官が詰めることとなった。
その隣家の道夫の家まで、厳重に見張られることとなった。
道夫といえば、この少年は川北先生の発見以来ずっと川北先生のそばについている。それは同時にその筋から監視と保護とを加えられて居り、道夫の自由行動は許されない状態にあった。
道夫の両親、ことに、その母親はいつまでも道夫が戻されないので、非常な不安な気持になり、この頃ではよく寝こむ始末であった。
それからもう一つ書いておかねばならぬことは、多摩川べりが連日にわたって厳重に捜索せられたことである。これは道夫ののべた話により、奇怪なる老浮浪者の行方を探しもとめることと、その川べりにあるはずの大きなおとし穴や、その老浮浪者の住んでいる場所をつきとめることにあった。
だがこの方は成功しなかった。あれ以来老浮浪者の姿はこの界隈《かいわい》には全く見あたらなくなった。また、大きな落し穴も見つからなかった。怪老人の住んでいたと思われる地点は分ったが、しかしそこには茶碗のかけら一つ発見されず、ただ事がすこしすり切れて、赤い地はだがでている箇所や、竹か棒をたててあったらしい跡が見つかっただけであった。
雪子学士の幽霊も、その後さっぱり現われないという報告であった。
川北先生の容態も、あいかわらず意識不明のままで、今は帝都の中心にある官立の某病院の生ける屍《しかばね》同様のからだを横たえつづけている。
こうして一週間ばかりの日がたった。
大胆な賭事《かけごと》
「やあ、課長さん」
きちんとした身なりの長身の紳士が、のっそりと田山課長の机の前に立った。
課長は何か書類を見ていたが、呼びかけられて顔をあげると、見る見る顔が朱盆《しゅぼん》のようにまっ赤になった。
「こんなところへ君が入ってきては困るね。おい本郷《ほんごう》、松倉《まつくら》、いったい何のために戸口をかためているのか」
課長は部下を叱《しか》りつけた。
「いや、僕は総監室からこっちへきたものですからね、貴官の部下には失策はないのですよ」
「総監だって誰だって、君をのこのこ、この部屋へ入らせることはできない。さあ、あっちの応接室へきたまえ」
雲行《くもゆき》は、はじめっから険悪だったが、応接室へ入ると同時にいっそう険悪さを加えた。
「なぜ君は、早く出頭しなかったのかね。その間に都下の新聞はこぞって、あのとおり幽霊の説、幽霊の研究、幽霊の事件の欄までできて騒いでいる。それにあおられて都民たちがすっかり幽霊病患者になっちまった。それについての都民からの投書が毎日机の上に山をなしている。みんな君のおかげだよ。なぜもっと早く出頭しない」
課長はかんかんになって探偵蜂矢十六を睨《にら》みすえた。
「あいにく東京にいなかったもんで、失礼しました」
蜂矢は煙草に火をつけて、こわれた椅子の一つにやんわりと腰を下ろした。
「連絡はすぐとるようにと、注意をしおいたのに、なぜ君の族行先へ連絡しなかったのか」
「留守の者には、僕の行先を知らせておかなかったものですからね。もっとも短波放送で貴官が僕に御用のあることは了解したのですが、何分にも遠いところにいたものですから、ちょっくらかんたんに帰ってこられなくて」
「どこに居たのかね、君は」
「ロンドンですよ」
「なに、ロンドン? イギリスのロンドンのことかね」
「そうです」
「何用あって……」
「幽霊の研究のために……」
「よさんか。わしを馬鹿にする気か」
「そうお思いになれば仕方がありませんから、そういうことにして置きましょう。しかしですな、御参考のために申上げますと、幽霊の研究はイギリスが本場なんです。殊《こと》にケンブリッジ大学のオリバー・ロッジ研究室が大したものですね。それからこれは法人ですがコーナン・ドイル財団の心霊研究所もなかなかやっていますがね」
「もうたくさんだ。君のかんちがいで見当ちがいを調べるのは勝手だが、わしの担任している木見、川北事件は幽霊なんかに関係はありゃしない。純粋の刑事事件だ」
「それは失礼ながら違うですぞ。もっとも幽霊がでる刑事事件もないではないでしょうが」
「わしは断言する。この事件に幽霊なんてものは関係なしだ。幽霊をかつぎだすのは世間をさわがせて、何かをたくらんでいる者の仕業だ。わしは確証をつかんでいる」
「困りましたね。僕の考えは課長さんのお考えと正反対です。この事件において、幽霊の真相を解かないかぎり、事件は解決しません」
「君はずいぶん強情だね。ここのところはたしかなのかい」
課長は指をだして、蜂矢の頭をついた。蜂矢は怒りもしないで笑っている。
「ねえ、課長さん。貴官はまだ幽霊をごらんになったことがないからそうおっしゃるのでしょう。だから一度ごらんになったら、そんな風にはおっしゃらないでしょう」
「とんだことをいう、君は……」
「いや、ほんとうですよ。では貴官に幽霊を見せる機会をつくりやしょう」
「なんて馬鹿げたことを君はいうのか」
「よろしい。そのことは引受けやした。多分成功するでしょう。しかしかなり忍耐もしていただきたくそれに僕のいう条件をまもっていただかねばなりません。そして幽霊は、さしあたりこの警視庁の中へだすことにしましょう。それも貴官の課の部屋へでてもらいましょう」
「君は冗談をいってるんだ。もう帰ってもらおう」
「いや、僕はまちがいなく本気です」
「阿呆は、きっとそういうものだ、自分は阿呆じゃないとね」
あまり蜂矢がまじめくさって幽霊の話をし、しかも所もあろうに捜査課の中へ幽霊をだそうと確信あり気にいうので課長はあまりのばかばかしさに、さきほどの怒りも消えてしまい、蜂矢をもてあまし気味となった。蜂矢はそんなことにはかまわずしばらく考えていた末に、こういった。
「魚を釣るにはえさが要るように、幽霊をつりだすにも、やはりえさが必要なのです。僕は今日の午後そのえさを持ってきて貴官の机の上に置きます。但しこのえさは絶対に貴官たちの手によって没収しないようにねがいます。たとえそれがどんなに貴官たちをほしがらせても。約束して下さいますか」
「約束はいくらでもするがね、だが……」
「幽霊のでる時刻は夕方になってあたりが薄暗くなりかけてから始まり翌日の夜明けまでの間です。
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