てたまるものではない。この廊下、この別棟にはほかに出入口はない行停《ゆきどま》りとは聞いたがどこかに誰も知らない抜け道があるのでなかろうかという気がした道夫は、いきなり研究室の北側の窓のところへかけよって外を見た。そこは庭園になっているのであるが、
「あっ、あいつだ」
と、思わず大きな声で叫んだ。
道夫の目が捕えたのは、今しも庭園の木蔭《こかげ》をくぐって足早に立去ろうとする老浮浪者の姿であった。
「誰?」
川北先生が道夫の傍へ飛んできた。
「あの怪しい老浮浪者です。あいつを捕えましょう。あいつは、この窓の下から中の様子を見ていたか、それともこの部屋へ出入したかもしれないんです」
「この部屋へ出入りができるとも思われんが、とにかく捕えて詰問《きつもん》しよう。家宅侵入をおかしたことは確かだろう」
川北先生と道夫は玄関へとびだした。そこで老浮浪者の先まわりをして、表の塀の西の方へ廻り、裏道へでた。
「やっ」
「いたぞ」
細い道で、双方はぱったり出会った。川北先生と道夫は、相手をにらめつけながら、じりじりと傍へ寄った。老浮浪者の目にはちょっと狼狽《ろうばい》の気色《けしき》が見えたが、すぐ平静な態度になって、二人の横をすり抜けて通ろうとした。
「待ちたまえ。ちょっと聞きたいことがある」
と川北先生がいった。
すると老浮浪者はかぶりをふって、そのまま強引に通り過ぎようとした。
「待ちたまえというのに……」
と、先生はとうとう老浮浪者の長い外套《がいとう》の腕をつかんで引きもどした。すると老浮浪者は足を停《と》めてのっそりと立停った。
「何をしていたのかね、君は。さっき木見さんの庭へ入りこんで怪しい振るまいをしていたが……」
老浮浪者は、それを聞いても知らんふりをしていた。
「聞こえないのか、君は……」
と、先生はもう一度、同じことを繰返した。すると老浮浪者は、ごそごそする髯面《ひげづら》を左右にふった。道夫はそれを見ると、さっきからこらえていた憤慨《ふんがい》を一時に爆発させて、
「僕はちゃんと見ましたよ。あんたが窓の下から逃げだしたところをね。木見さんのお嬢さんをかどわかしたのはあんたでしょう」
それでも老浮浪者は、頭を左右にふるばかりであった。その質問を否定するのか、自分は耳が聞えず、二人のいうことが聞き取れないというのか、どっちだか分らなかった。
川北先生は、相手が一通りの手段ではいかないことを知ると、態度を改めて、
「ねえ君。雪子さんの行方が知れないで木見さんのお宅ではほんとうにお気の毒にも歎《なげ》き悲しんでいられるのです。前後の事情から考えると、君はそれについて何かを知っていられるように思う。どうかわれわれなり、木見さんの家の人を助けると思って、君が知っていることを話して下さらんか。どんなにか感謝しますがねえ」
川北先生の話をしている間に老浮浪者の面《おもて》には、何か感情が動いた瞬間があった。
「ねえ、分るでしょう。そうだ、これについて教えて下さい。さっきあの廊下を伝わって研究室の方へきた若い洋装の女の人は庭園の方へでてこなかったですか」
老浮浪者は、一つだけ頭を横に振った。見なかったという返事らしい。
「ああ、ありがとう。次に……そうだ、君は窓から、今の話の若い洋装の女が部屋にいたのを見ましたか」
老浮浪者は、かるく一つうなずいた。――道夫は老浮浪者が返事をしていると知って、新しい希望に心を躍《おど》らせた。
「ありがとう。もう一つ――研究室から研究ノート第九冊が見えなくなったが、誰が持っていったんだか、君は知っていますか」
川北先生は重大な質問を発した。老浮浪者はどんな答をするかと、道夫は固唾《かたず》をのんで、相手の髯面を見つめた。
すると老浮浪者は、大きな手袋をはめた両手を、自分の頭のところへあげ、長い髪《かみ》の毛を示すらしい手つきをし、それから片手で女の身体らしい形を作ってみせた。
「なに、するとあの研究ノートは、あの若い女が持っていったというのですか」
先生は、さっと顔を硬《こわ》ばらせて聞いた。そんな奇怪なことがあっていいだろうか。いつの間にかあの生ける幽霊は研究室へ入って、あの研究ノートを持っていったものらしい。
老浮浪者は、また一つうなずいたが、そのあとで大口をぱくぱく開いて、声なき笑いをしてみせた。
「じゃあもう一つ。あの若い洋装の女はどこからあの部屋をでていったですか」
老浮浪者は大きく首をかしげたが、それには答えようともせず、すたすたと歩きだした。川北先生があわてて老浮浪者の袖《そで》をとってとどめた。が老浮浪者はその袖を払って川北先生を押し返した。よほどの力だったと見え、川北先生はどーんと後へ引っくり返って土にまみれた。道夫がおどろいて老浮浪者にとびついたが、たちまち彼も、はげしく突き飛ばされた。なんという怪力であろう、老人のくせに……。
老浮浪者は、さっさと立去った。
怪しい影|来《きた》る
その次の日は土曜日であったので、お昼がすむと、川北先生は道夫といっしょに木見邸を訪ねた。
雪子の母親は寝込んでいた。昨日雪子の幽霊をみてからすっかり気を落してしまったのである。
娘は死んだものに違いないと考えるようになったからだ。
川北先生と道夫とは、まだそう決めるのは早すぎることを交《かわ》る交る説いた。そして先生よりも道夫の方がそれを熱心にいいはったのだった。
雪子の父親は不在だった。川北先生と道夫は、雪子の母親の許しを得て、研究室をもう一度調べさせてもらうことにした。
例のうす暗い長廊下を渡って、別棟の研究室へいった。扉の錠を外して、再び室内へ入った。
「ほら、やっぱり無い」
川北先生は、部屋の中央に近い卓子《テーブル》のところへいって、本立の間に並べて立ててある、研究ノートの列を指した。前日同様、研究ノート第九冊は見えず、それがあったところだけが、歯が抜けたようになっていた。道夫少年は背中が急に寒くなった。
「ほんとうに、なぜ無くなったんでしょうね。幽霊がもっていってしまったんでしょうか」
道夫には解けない謎だった。川北先生も首をひねって当惑顔だった。
「幽霊なら、物を持っていく力はないだろうと思うがね。物を持っていくかぎりそれは幽霊ではなく、生きてる人間だと思う」
先生はそういった。
そこで、どこかこの部屋から外へ抜ける秘密の通路があるに違いないという見込みをたてて、二人は部屋を今日こそ徹底的に調べにかかった。
研究室だけではなく、それに続いた図書室や寝室も調べてみた。壁も叩《たた》いて、調べ、天井は棒でつきあげてみたし、床はリノリウムのつぎ目をはがしてまで調べた。戸棚類はみんな動かした。積上げてあった本の山は、いちいちおろしたし、重い器械は動かした。
そんなに念入りに調べてみたが、その結果は見込みはずれであった。
「どこにも出入りできるところはないと断定しなければならなくなったわけだね」
先生は三時間に近い力仕事と緊張とにすっかり疲れて、椅子《いす》の一つに身体をなげかけていった。
「ほんとうに秘密の出入口はないのですね。すると昨日現われたという雪子姉さんの姿は、やっぱり幽霊だったのでしょうか。それとも、気の迷いで、見たように思ったのでしょうか」
「いや、気の迷いなんてことはないよ。お母さんが見たばかりでなく、実は先生も雪子さんらしい姿が廊下から、この部屋をのぞきこんでいるところを、実際に見たんだからね」と、川北先生は、あの話をした。
「それにあの怪しい老人の浮浪者も見たらしいからね。しかもあの研究ノート第九冊を、雪子さんが持去るところを見たといったようだ。とにかく三人も見た人があるんだから、昨日ここへ雪子さんが姿を現わしたことは間違いなしだと思う」
「じゃあ、やっぱりそれは雪子姉さんの幽霊ですね」
「問題はそこだ。果して幽霊かどうか。もう一度現われてくれれば、きっとそれをはっきり確めることができると思うんだが……」
そういって川北先生は、深刻な表情をした。日はもう暮れ方に近づき、それに雨がきたらしく雲が急に重く垂《た》れこめて、室内は暗くなった。道夫は壁のスイッチをひねって電灯をつけた。川北先生も椅子から立上がった。
「さあ、これからどうするかな」
そういって先生は、次の捜査方針をどうたてたものかと、室内をぐるっと見渡した。
「おやッ。あ、あ……」
先生が異様な声をだした。道夫はそのとき戸棚の中の薬品を見ていたのだが、先生の声におどろいて、その方をふりかえった。すると先生は蒼白《そうはく》にして、塑像《そぞう》のように硬直していた。そして先生の眼は戸口へ釘《くぎ》づけになっている!
「あっ!」
こんどは道夫が叫んだ。ふりかえった彼の前をすれすれに、朦朧《もうろう》たる人影が、音もなく通り過ぎて部屋の中へ入ってきた。何であろう。何者であろう。
道夫は全身を電気に撃たれたように感じ、怪しい影の後姿《うしろすがた》を見つめたままその場に立ちすくんだ。
幽霊追跡
「木見さんのお嬢さんですね。お話があります。お待ちなさい」
川北先生は、あえぎながら、これだけの言葉をやっと咽喉《のど》からしぼりだした。
(そうだ、雪子姉さんだ)
朦朧たる人影は後姿ながら、それは道夫に見覚えのある服をきた雪子に違いない。
怪しい人影は、図書室の入口の前あたりをしずかにあるいていた。川北先生と道夫の位置は、この怪しい影をはさんでいる関係にあった。
が、怪しい影は、川北先生に返事をしようともせずそのまま図書室の中へ消えた。
「お待ちなさい、お嬢さん」
川北先生は、勇気をふるいおこして、怪しい影の後から図書室へ飛びこんだ。道夫もそれに続いた。あれが雪子の幽霊か幽霊でないか、たしかめるには絶好の機会だ。そう思うと、さきほどの恐怖と戦慄《せんりつ》が、幾分へった。
と、雪子の怪影は、図書室の真中にたたずんでいた。川北先生は腕をのばして、怪影の腕をつかもうとした。
すると怪影は、風のようにすうっと前へ移動し、先生の手は空《むな》しく空気をつかんだ。
「しばらく、しばらく、お母さまが心配していられるのです。しばらく待って下さい」
川北先生は哀願するように、怪影の後から呼びかけた。だが怪影の耳には、その言葉が入らないのか、そのままつつうと前に進んだ。
「あ、外へでる。壁を通りぬけて……」
と叫んで、道夫はわれとわが眼を疑った。が、それは事実だった。怪影は、図書室の奥の壁につきあたると、そのまま壁の中に姿を消していったのである。
「ああ!」
川北先生もそれを見て取って、今や壁の中に消えんとする怪影を引きとめようと突進したのであるが、それは僅《わず》かに時おそく、先生は壁にいやというほどぶつかったばかりだった。
「失敗《しま》った。どうしよう」
川北先生の顔は、子供の泣顔のようにゆがんでいた。
「窓をあけて、追いかけましょう。間にあうかもしれないです」
「そうだ、窓をあけろ」
身の軽い道夫は、大急ぎで図書室をでて研究室に入ると雪子の大机の上へとびあがり窓をあけた。と彼の横をすりぬけて川北先生が猟犬のように窓からぽいと外へ飛びだした。
道夫もそれに続いて、窓を飛び越え、庭園へ下りた。
「あ、痛……」
道夫の飛び下りたところには、生憎《あいにく》石があったために、彼は足首をぎゅっとねじり、関節をどうかした。身体の中心を失った道夫はその場に横たおしとなった。
「ああっ、痛い……」
起上ろうとするが、右足首の関節が痛いので力がはいらない。残念である。彼は川北先生の方が心配になり、足首を手でおさえて、芝生《しばふ》の上に半身を起した。
「おお……」
先生は、見事に雪子をとらえていた。松の木と八《や》つ手《で》のしげっている暗い木蔭の下で、先生は雪子の後から組みついていた。このとき雪子の姿が、さっきよりもずっと明瞭《めいりょう》に見えた。道夫は、先生に力を貸さなければと、起上ろうとした。が、やっぱり駄目
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