奥から小さい眼をぱちぱちさせて、道夫の方へ深い同情の色を示しておられた。川北先生は文理科大学を卒業したばかりの若い先生で、数学と物理を担任しておられる。そして文学の素養も深くその方の話も熱情をこめて生徒たちにして下さるので、生徒たちは先生が大好きであった。
「はい、先生。僕の力ではとけない問題があって困っているんです」
 道夫は、川北先生に話をする決心をして、こういいだした。
「君の力では解けない問題だって、代数かね、それとも力学の問題かね」
「いえ、そうじゃないんです。行方不明事件とお化け問題なんです」
「えっ、何だって。行方不明事件にお化けだって」
「そうなんです。先生も新聞でごらんになってご存じかと思いますが……」
 と、道夫はそれから、お隣の木見雪子学士の行方不明事件と、昨夜雪子の研究室をのぞいて怪しい女の首を見た話をくわしくした。
「……お化けを見たなんていうと、先生はお笑いになるでしょうが、ほんとうに僕は昨夜この眼で見たのですよ」
 道夫は、気がさすか、妖怪事件については特にそういって弁明しないではおられなかった。
「いや、私はお化けの話を聞いても軽蔑《けいべつ》しないよ。お化けというからおかしく聞えるが、それを超自然現象といえば一向《いっこう》おかしくないし、大いに研究する価値のある問題だからね。何しろ現代の人類は自然科学についても、まだほんのちょっぴりの知識しか持っていないんだ。だからわれわれがまだ知らない自然現象はたくさんあるはずだ。お化けとか幽霊とかいうものも、いちがいに荒唐無稽《こうとうむけい》といって片づけられないのだと思う。イギリスの有名な科学者オリバー・ロッジ卿も、そういう超自然現象|殊《こと》に霊魂の問題について深く考えていたし、また名探偵シャーロック・ホームズの物語で有名な探偵小説家コーナン・ドイル氏も、晩年を心霊学研究に捧《ささ》げ、たくさんの興味ある報告をしている。そういうわけで、妖怪現象もここで科学的に検討をしてみる必要があるんだ。もっとも世間には、トリックを使った詐術師《さじゅつし》もかなり多いことだから、これに対しては十分警戒すべきだがね」
 若き川北先生は、川北先生たるところを発揮して、道夫のために、科学から見た妖怪論をひとくさりこころみた上で、
「しかし、それはそれとして、その木見さんのお嬢さんの行方不明事件は気の毒だね。係官は相当の捜査をした上で、どうも分らないと事件をなげだしたわけだろうが、まあ私の感じでは、この事件はかなりの難事件だと思うね。よほどの名探偵が登場して、徹底的に事件を調べないかぎり、事件の謎はとけないだろうという気がする」
 そういって先生は、深い溜息《ためいき》をついた。
「そうですか。そういう名探偵がいるでしょうか。うまくたのめましょうか。そして雪子姉さん――いや木見学士をうまく取りもどして下さるでしょうか」
「さあ、そのことだがね。……心当りの人がひとりないでもないのだが、あいにく不在なんだ。よく旅行にでかける人でね」
「じゃあ今お頼みできないわけですね。困ったなあ」
「まあ三田君。そう悲観しないでもいいよ」
 先生はなぐさめ顔にいった。
「ですが先生、僕のような力のない者がひとりで事件の解決に当って見ても、とても駄目だと分ったんですからね」
「ああ、それはそうだが……」
 川北先生はすこしためらって見えたが、やがて道夫の肩に手をおいて、
「よし、三田君、じゃあ私ができるだけ君に力をかそうじゃないか。もちろん二人だけの力ではだめだと思うが、君ひとりよりもましだし、それに私は君の話によって、ある特別の興味もおこったので、私の方からむしろ君の仕事に参加させてもらおうや。そのうちに私の心当りの人が帰ってくるだろうと思うんだ」
「先生、どうも有難う。僕は千人力をえた気持です」
「そうでもないが……」
「で、その心当りの人というのは、誰方《どなた》なんですか」
「それはね、私の同郷の先輩でね、蜂矢《はちや》十六という人なんだ」
「蜂矢十六? ああ、するとあの有名な大探偵蜂矢十六氏のことですね。空魔事件、宝石環事件、百万円金塊事件などを迷宮の中から解決したあの大探偵のことですね」
 道夫はその有名な大探偵のことを、人から聞いたり新聞で読んだりしてよく知っていた。あの大探偵に川北先生がよく頼んで下さるなら、これこそほんとうに万人力だと思った。ただ、その蜂矢大探偵が、今旅行で留守だとは、くれぐれも残念だった。

   生きている幽霊《ゆうれい》

 次の日の午後、道夫は川北先生を、木見家の両親に紹介することに成功した。
「そのように御親切にいって下さるのはたいへん有難いです。厚くお礼を申します。なにしろ娘の失踪事件の捜査は、当局でも事実上すっかり打切った形ですからね。親としてまことに情なく思う次第です」
 雪子の父親の木見武平《きみたけへい》は、そういっそ川北先生と道夫の訪問に礼をのべたが、しかし、禍《わざわい》が先生と道夫の上に降りかかるようなことがあっては心苦しいからと武平は灰色の頭をふって、辞退の意をもらした。
 しかし川北先生は、それは心配無用と答え、とにかく当局とは違った考えがでるかもしれないから、ぜひお嬢さんの研究室を見せてくれるようにたのんだ。
 これには武平も応じないわけにはいかなかった。それで二人をそちらへ連れていった。暗い長廊下を通って、別棟《べつむね》になっている研究室の扉までくると、武平は懐中から鍵をだしてそれを開いた。ぷーんと、薬品の匂いが、入口に立つ三人の鼻を打った。
「暗いですね、電灯をつけましょう。はてどこにあったかな、スイッチは……」
「小父《おじ》さん、ここにありますよ」
 道夫は、この研究室へよくきたことがあるので、案内には明るかった。彼は入口の戸棚の裏になっている壁スイッチをぴちんと上げた。と、室内は夜が明けたように明るくなった。
「ほう、これは……」
 川北先生が、思わず歓声《かんせい》を発した。先生はこの研究室の豪華さにおどろいたのであった。部屋の広さは十坪以上もあろうか、天井も壁も良質の白亜《はくあ》で塗装せられ、天井には大きなグローブが三つもついていて、部屋に蔭を生じないようになっていた。大きな実験台が、入口と対頂角をなしたところにすえてあり、電気の器具がならび、その向う側には薬品の小戸棚を越えてレトルトや試験管台や硝子《ガラス》製の蛇管《じゃかん》などが頭をだしていた。その左側には工作台があり、工作道具や計器の入った大きな戸棚に対していた。壁という壁は、戸棚をひかえていたが、大きな事務机が、部屋の右手の窓に向っておかれてあり、その右には書類戸棚が、左側には長椅子《ながいす》があった。また部屋の中央には、丸卓子《まるテーブル》があってその上には本や書類や小器具などが雑然と置いてあった。大理石の手洗器が、実験台の向うの隅《すみ》にあり、壁には電線の入った鉛管が並んで走っていた。個人の研究室としては実に豪華なものであった。
「こっちに図書室があります」
 武平は、部屋の東側の壁にかかっている藤色のカーテンをかかげて、その中へ入っていった。そのときであった。川北先生が道夫の身体をついて、ひくい早口で話しかけた。
「道夫君、君はこの部屋で女の首を見たといったね。その女の首は、どのへんに浮んでいたと思うのかね」
 道夫は、ぞっとして首をちぢめたが、
「そのへんです」
 といって実験台と丸卓子との中間を指さした。
「ここかね」
 川北先生は、そこまでいってみた。
「いえ、もっと丸卓子の方へよっているように思いました」
「するとここらだね」
 川北先生は、手を伸ばして丸卓子の上に大きな獅子のブックエンドにはさんである大きな帳簿をなでた。その帳簿は皮革の背表紙で「研究ノート」とあり第一冊から始まって第九冊まであった。
「どうぞこちらへ」
 図書室から武平が顔をだしたので、川北先生と道夫とは、そっちへいった。図書室には学術雑誌や洋書が棚にぎっちり並び、その外に器械もほうりこんであった。
「もう一つあちらに寝室がついています。それも見て頂きましょう」
 武平は図書室をでて再び広間に出、南側の壁にはめこんである扉の前に立った。扉には錠が下りていたので、武平は鍵をだして腰をかがめて、あけに懸《かか》った。が、鍵が違ったらしく、すぐにはあかなかった。道夫は武平の傍《そば》へいって手助けをしようとした。川北先生はその間、部屋をぐるぐる見廻《みまわ》していた。そのとき先生が入口の扉の方へ眼をやったとき、暗い廊下からこっちを覗《のぞ》きこんでいる背の低い洋装の少女があった。
(誰だろう。お手伝いかな。それとも親類の人かな)と思っているとき、寝室の扉があく音がした。
「あきました。どうぞこちらへ……」
 武平の声に、川北先生はそっちを見ると、武平と道夫は中へずんずん入っていく。
 川北先生は、それを追い駆けるようにして寝室へ入った。そこはくすぐったいような匂いと色調とを持った高雅な女性の寝室であった。ベッドは右奥の壁に――。
「ゆ、雪子、雪子……」
 突然|昂奮《こうふん》した女の声がして、研究室の中へ駆け込んできた者がある。武平が、さっと顔色をかえて寝室を飛びだした。
「おい、どうしたんだ、そんな頓狂《とんきょう》な声をあげて。……おい、落着きなさい」
「ああ貴郎《あなた》。雪子ですよ、雪子が今、ここへ入ってきたでしょう」
「なに、雪子が……」
 武平の声がふるえた。
「さあ、わしは見なかったが……もっとくわしく話をなさい」
 道夫も、川北先生もすぐかけつけたが、昂奮している主は、雪子の母親だった。その母親のいうことに、たしかに雪子と思われる後姿《うしろすがた》の人影が、こっちの離家《はなれや》へ向って廊下を歩いていくのを見かけたので、すぐ声をかけながら後を追ってきたのだという。
 この話は一同をおどろかせた。そこで声をかけながら皆は其処此処《そこここ》を懸命に探したが、雪子の姿はどこにもなかった。どこからかでていったのではないですかと川北先生が聞いたが、武平夫妻の話では、この離家は出口がないのででていける筈はないし、窓も皆しまっているという。まことに変な話だ。
「お前、気の迷いじゃないか」
 武平はきいた。すると母親は首を強く左右へふって、
「いえ、たしかに見ましたですよ。廊下をこっちへ歩いていくのを……」
「変だね。でもたしかに入ってこないよ」
「じゃあ、あれは幽霊だったでしょうか」
「幽霊? そんなものが今時あるものか」
「いや、幽霊ですよ。幽霊にちがいないと思うわけは、後姿は雪子に違いないんですが、背がね、いやに低いんですよ」
 そういって武平夫妻がいいあらそっているとき、川北先生が突然大きな声をあげた。
「これは変だ。いつの間にか『研究ノート』の第九冊がなくなっているぞ。さっきまでたしかに第一冊から第九冊までそろっていたのに……」
 先生は丸卓子の上にならんだ「研究ノート」の列を指しながら唇《くちびる》をぶるぶるふるわせていた。
 怪また怪。果《はた》してそれは雪子の幽霊だけだろうか。引抜かれた「研究ノート」第九冊は誰が持っていったか。木見雪子学士の研究室には深い異変がこもっているように見える。

   問答《もんどう》

 道夫のおどろきはその絶頂に達した。
 雪子の幽霊が廊下を歩いてこっちへきたというのに、その影も形もない。そして室内にさっきまではたしかにあった研究ノート第九冊がなくなっているというのだ。なんという不思議なことの連続だろうか。
 が、道夫は大きなおどろきにあうと同時に勇気が百倍した。それは、今こそ一つの機会が到来しているのだと思った。雪子姉さんはかならずどこかこの付近にいるのに違いない。そういう気がした。そしてもっと熱心に、もっと機敏に探すならば、今にも雪子姉さんを発見できるのではないか。雪子姉さんはかならず生きている。でなければ、さっきまでこの部屋にたしかにあった研究ノートが突然紛失するなどということがあっ
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