う評判であったから、係官の方でもやっぱりこれは思いちがいかなと考える方が有力となった。
 こんなわけで、木見雪子学士の行方不明の謎はとけず、事件はついに迷宮入りの形となった。
 係官は、あれほど毎日つづけていた雪子の研究室の捜査をやめてしまった。
 そのかわり、雪子の友達や知合いなどの調べを始めるほか、この附近一帯に、何か怪しい出来事があったとか、或いは怪しい人物がうろついていなかったか、というような外部の探偵に移ったのであった。

   怪しい影

 道夫は、あれ以来、くやしさに煮えかえるような胸をいだいていた。
 本当の姉のように思うあの雪子姉さんが、もう一週間も姿を消してしまい、たしかに大事件であるにもかかわらず、係官の捜査が少しも成績をあげず、そればかりかこの頃では、係官たちは雪子姉さんの失踪《しっそう》事件にすっかり熱を失ってしまったように見える。まことにくやしいことだ。
(何とかして、この事件の真相を探しあてたいものだ。そして雪子姉さんを無事にとりかえしたいものだ)
 道夫は、いつもそう思っていた。それには一体どうしたらいいのであろう。中学の二年生にできることといったら、大したことではない、おそらく刑事の半人前の仕事もできないであろう。しかし熱心に一生けんめいにやるなら、熱心でない大人よりはいい結果をあげるかもしれないと思った。そこで道夫は、事件についてのいろいろなことをノートに書きつけ、図面も描き、それを見て大人たちの見落し考え落している事件の鍵を発見しようと、小さい頭をひねり始めたのである。
 この小探偵の事件研究は、あまりはかどらなかったが、あの事件があってちょうど二週間後の頃から、この事件について新しい一つの話が、この界隈《かいわい》の人の口にのぼるようになった。それは、事件の少し前まで、毎日のようにこの近所をうろついていた老人の浮浪者《ふろうしゃ》が、どういうものかあの頃以来さっぱり姿を見せないといううわさだった。
 その老浮浪者は、実に風がわりな浮浪者だった。眼が悪いらしく、いつもこい大きな黒眼鏡をかけていた。そんなことよりも風がわりだというわけは、この老浮浪者は、別に貧乏でもないらしいのに、各家庭の裏口へ入りこんで、食をねだることだった。貧乏でもないらしいというわけは、この老浮浪者は、頭には色こそきたなく形こそくずれているが灰色の大きな中折帽子《なかおれぼうし》をかぶって、そのつばを下げ、額から耳のあたりから頸《くび》のうしろまですっぽりかぶっていた。服は、長いだぶだぶのレーンコートを着ていたが、質はよいと見え、破れている箇所は一つもなかった。そしてコートの奥にはカーキ色の服ともシャツともつかぬものを着ているらしく、はでな赤いネクタイをむすんでいた。靴も、大きなゴム長をはいていて、雨であろうと天気であろうとぬがなかった。彼はポケットから、大きな懐中時計をだしてみることもあり、また時には店へ入りこんで、大きな皮手袋をはめた手の上に十円|紙幣《さつ》などを乗せて塩を買ったり酢を買ったりする。そういうところは、けっして浮浪者ではないように見えた。
「そういえば、あの年寄りの浮浪者は、いつだか、木見さんのお邸《やしき》のまわりをうろついていたわね」
 塀のかげで、三人のお手伝いがこの話をしている。
「そうよ。裏手へまわって、あの空地《あきち》のあたりから、雪子さんの研究室の方を、のびあがって見ていたわ」
「怪しい浮浪者だわね。そうそうあの人はよくあの裏手の空地にある大きな銀杏《いちょう》の樹の上にのぼって昼寝していることがあったわよ。あたし、それを見て、きゃっといって飛んで帰ったことがあるわ」
「いよいよ怪しいわね。あの浮浪者、どこへいってしまったんでしょうか。雪子さんの事件以来、二度と姿を見かけないわね」
「どこへいってしまったんでしょう。まさか雪子さんをつれて逃げたんじゃないでしょうね」
「まさか、あんな年寄りに」
「でも、分らないわよ。変に気味のわるい人なんですものね」
「ひょっとしたら、あの浮浪者、そのへんにかくれているんじゃない」
「いやあ、そ、そんなことをいっておどかしては……」
 こんなふうな会話が、附近一帯でさかんにとりかわされた。誰の考えも、あの気味のわるい高等浮浪者(と町の或る人はうまい名をつけた)が少くとも雪子がきえた頃以来、姿を見せないことに不審の根拠を置いていた。
 道夫少年も、この噂《うわさ》は耳にしていた。ひょっとしたら、自分に疑いがかかることを恐れるか何かしてそしてその浮浪者が、昼間だけは姿をかくしているのではないか、そして夜中には近所をうろついているのではないかと思った。それで或る夜、道夫は時計が十二時をうつと、そっと雨戸をあけて外へでた。家のまわりを見まわるためだった。
 しかし道夫は、家のまわりにかわったことがないことをたしかめた。もちろんあの老浮浪者の姿もなかった。明るい探険電灯で、高い銀杏の梢《こずえ》をてらしてもみたが、老浮浪者の姿はなく、あるのは雁《かり》のような形をした葉ばかりだった。
「大したことはなかった。じゃあ、もう家へもどろう」
 と、彼は探険電灯の灯《あかり》を消し、一ぺん表通りへでるため木見家の裏手を通りかかった。
 そのとき道夫は、何気なく、木立越しに、雪子姉さんの研究室の方を見た。
 と、その研究室の中に、ぼんやりしたうすあかい灯がついているように思った。
「誰だろう、今頃、あの部屋の中を調べているのは……」
 刑事たちではなかろう。では誰か家の人だろうか。雪子姉さんのお父さんかお母さんに違いない。
 そうは思ったが、道夫は何だかその灯のことが気になって仕方がなかった。それで彼は思い切って、くぐり戸を開くと、お隣の庭へすべりこんだ。そして研究室の方へ近づいていった。
 研究室の窓は高かったので、中を全部見ることはできなかったが、庭石の上に乗ってやっとガラス窓から部屋の一部を見ることができた。その刹那《せつな》、
「あっ、あれは……」
 と、道夫はその場に立ちすくんだ。彼は何を見たか。暗い部屋の中に、宙にうかんでいる女の首を見たのであった。

   のびる顔

 道夫は、おどろきのあまり、その場に化石のようになってしまった。
 しかし道夫の眼だけは生きていた。彼の眼は、おそろしいものの影をおっていた。闇の研究室の中に、そのおそろしい女の首だけが見えている。宙にうかんでいる女の首。ぼんやりと赤い光に照らされているようなその首だけが見えるのだ。
(なぜ、あんなところに、女の首が宙にうかんでいるのだろう?)
 道夫は、そのわけを早く知りたかった。が、そのわけはさっぱりわからない。
(おや、あの首は、雪子姉さんに似ている……)
 道夫は、ふとそのことに気がついた。
(雪子姉さんが、家にもどってきたのだろうか)
 それなら、こんな喜びはない。――雪子姉さんが戻ってきて研究室へ入ったのだ。室内の灯が、雪子姉さんの首だけを照らしているのだ。だから、姉さんの首だけが見えるのだ。
「ああ、何という僕はあわて者だったろう」
 道夫は、おかしいやらはずかしいやら、そしてまたうれしいやらで庭石の上から芝生《しばふ》へ下りようとした。
 だが、そのとき彼はふたたび全身を硬直させなければならなかった。
「あっ、あの顔!」
 雪子姉さんの顔が、どういうわけか、急に馬の面のように長くなった、そうすると、もう雪子姉さんの顔だといっていられなくなった。それは妖怪変化《ようかいへんげ》の類である。
 が、おどろきはそれでとまらなかった。その怪しい顔はにわかに表情をかえた。眼が、筆箱のように上下にのびた。口を開いた。それがまるで短冊《たんざく》のようだ。顔がずんずんのびて、やがてスキーほどに上下へ引きのばされたかと思うと、突然ふっと、かき消すようにその長い顔は消えた。後に残るは、暗黒だけだった。
 道夫は、しきりに手の甲で、自分の眼をこすっては、研究室内を見直した。だが、もう宙に浮ぶ女の首は見られなかった。五分たち十分たちしたが、怪しい首は遂《つい》に再び現われなかった。
「ああ、今見たのは夢だったかしら……」
 道夫は、われに返って、そう呟《つぶや》いた。
 いや、夢ではない。自分は、足場のわるい庭石の上で、身体を動かさないようにする為、けんめいに努力していたことも現実であるし、近くの空を夜間飛行の一機が飛びすぎる音を耳にしたのもまた現実だった。
 だが、今のが現実だとしたら、いったいあれを何とといたらいいだろうか。この世ながらの幽霊の首を見たといったらいいであろうか。それとも妖怪変化が研究室の中に現われたといった方がいいか。とにかくどっちにしたところで、自分の話を本当にとってくれる人は先ずいないだろう――と、道夫はもう今から当惑した。
 三十分待ったが、ついに何の怪しいことも起らないので、道夫は木見家の庭をぬけだし、くるっと廻《まわ》り道をして、やがて自分の家へもどった。そして戸にかけ金をかけて寝床へ入った。
 もちろん目が冴《さ》えて、睡《ねむ》れなかった。解き難い謎が、巴《ともえ》まんじになって道夫の頭の中を回転する。
(あの怪しい女の首と、雪子姉さんの行方不明との間には、いったいどんな関係があるのだろう?)
 何か関係があるような気がしてならぬ。しかしそれはどんな関係か、道夫には見当もつかない。
(あの怪しい女の首は、はたして雪子姉さんの顔だったろうか)
 そうであるようにも思うが、はっきりそうだとはいい切れない。雪子姉さんの研究室で見たのだから雪子姉さんに見えたのかもしれないし、また雪子姉さんのことばかり考えていたので、そう思ったのかもしれない。
(どうして、あの首が俄《にわ》かに上下に馬の顔のように伸びたんでしょう)
 わからない、全くわからない。
 考えつかれて、道夫はとろとろと少しねむった。と、やがて悪夢におそわれた。地獄の中で大捕物があって、結局自分がおそろしい鬼や化け物に追いまわされている夢だった。うなされているところを、誰かに起された。
 起したのは、道夫の母だった。もう朝になったと見え、ガラス戸に陽《ひ》がさしていた。
 道夫は、昨夜のことを母に話さなかった。それは、そんなことを話して母が気味わるがるにちがいないと思ったからだ。
 朝飯がすんで、道夫は学校へいくために家をでたが、すぐ駅の方へはいかず、お隣へよった。昨夜の怪事を、木見家の人々が知っているかどうか、それを知りたかったので。雪子の母親は、いつに変らぬ調子で現われて、道夫がいつもなぐさめにきてくれることを感謝した。
(ふうん、すると小母《おば》さんは昨夜の怪しい首のことを、まだ知らないのだな)
 と道夫はそう思った。知らなければ、今いわないでもよいであろう。
 が、一つ聞きたいことがあった。
「小母さん。昨夜、研究室の入口の扉は、しめてありましたか」
 雪子の母親は、なぜそんなことを聞くのかといぶかりながら、答えてくれた。
「あの入口の扉は、いつもちゃんとしめてありますの。なんだか気味がわるくてね」
「はあ、そうですか。そして、鍵はどうでしょう。昨夜研究室の扉の鍵はかけてありましたか。どうなんですか」
「鍵? ええ鍵はちゃんとかけてありましたよ。まあ、なぜそんなことをお聞きなさるの」
「ええ、それは……それはちょっと考えてみたいことがあったからです」
 道夫は、そこで話を切って、外へでた。
 不思議だ、不思議だ。研究室の扉に錠が下りていたのなら、外からあの部屋へは誰も入れないはずだ。すると昨夜見たあの女は、いったいどこからあの部屋へ入りこんだのであろうか。いよいよわけがわからなくなった。

   川北《かわきた》先生

「おい三田君。君は何か心配事でもあるの。近頃みょうにふさぎこんでいるじゃないか」
 学校でのお昼休みの時間、運動場のすみの木柵《きさく》によりかかって、ぼんやり考えこんでいる、道夫の肩を、そういってたたいた者があった。
「あ、川北先生……」、
 主任の川北先生が、眼鏡の
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