だった。
「先生、……雪子姉さん……」
道夫は芝生の上をはいながら、二人の方へ一|糎《センチ》でも近づこうと努力しながら雪子と川北先生のようすを凝視《ぎょうし》した。
そのとき彼は、雪子がもがきながら、後へ上半身をねじって、川北先生を突きはなそうと懸命に力をだしているのを見てとった。雪子姉さんは何かを誤解しているのであろう。そんなことをしないで、おとなしく川北先生の腕の中に引き留められていればいいのにと道夫は思った。
川北先生は、雪子の懸命の反抗にも、忍耐づよくこらいえている様子だった。彼は雪子を後から抱きすくめたまま、金輪際《こんりんざい》はなそうとはしなかった。
が、そのときである。道夫はにわかに、予期しなかった不安に襲われた。というのは、互いに搦《から》みついている二人の姿が急にぼんやりしてきたからである。
「先生、どうしたんです……」
そういう間にも、揉《も》み合った先生と雪子の姿は、ますますぼんやりしてきて、やがて道夫の眼には見えなくなった。彼は息のとまるほどおどろいた。
彼は、それでもまだその異変がそれほどおそるべきこととは気がつかず、或《ある》いは眼の見まちがえかと思いながら、無理に芝生に立上り、よろめきながら、現場に近寄った。
二人の姿は、完全になかった。
するとどこかの木蔭へかくれたのかと思い、庭園のあちらこちらを探したが、雪子姉さんの姿はもちろん川北先生の姿さえ、どこにもなかった。生垣《いけがき》をこして、路《みち》へでてしまったが、そこにも姿はなかった。
このとき道夫の叫び声を聞きつけて、隣組の人々がばらばらとかけつけてきた。そして道夫にわけをたずねたので彼はそのわけを一通り話をした。だが誰も生きている幽霊のことや、川北先生が急に消えてしまったことについては信ずる者はなかったが、とにかくどこかにその二人がいるのであろうと、一同は手わけしてそのあたりをくまなく探してくれることになった。
その間道夫は、格闘のあった元の木蔭に戻ってきて、なおよく調べた。彼はその途中、ふと気がついて、八つ手の下に入り乱れてついている、川北先生の足跡をたどってみた。すると不思議な事実が判明した。先生の足跡は、現場以外のどこへも伸びていないのであった。そしてもう一つ不思議なことに、雪子の足跡の方はただの一つも見当らなかった。
隣組の人たちは、さんざんそこらあたりを探したが、やっぱり見当らないと報告した。怪また怪。雪子の生ける幽霊と川北先生とはどこへいってしまったのだろうか。
隣組総出
雪子学士の幽霊が再び現われたこと、そして川北先生が幽霊と取組んだまま姿を消したこと――この二つの怪奇きわまる事件は、目撃者である道夫少年の話によって、そこら界隈《かいわい》に驚愕《きょうがく》と戦慄の大きな波紋をひろがらせていった。
「ふしぎですなあ。やっぱりこの世に幽霊というものがあるんですかねえ」
隣組の、ある銀行の支店長は、帽子のあご紐《ひも》をかけながら、顔をこわばらせた。
「この前は、うちの家内《かない》の神経のせいじゃろうと、あまり問題にもしないでいましたが、こうたびたび現われるようだと、あれは本当に幽霊かもしれんですなあ」
外出先から帰ってきた雪子の父親武平がさわぎの仲間に加わって、こんな感想をのべた。
「もっとふしぎなことは川北先生の姿が消えてしまったことなんです。あの松の木で完全に姿が見えなくなったんです。一体どういうわけでしょう」
目撃者の道夫は、川北先生のことを問題としてだした。
「どういうわけでしょうね。幽霊が消えるのはわかっているが、生きている人間まで消えてなくなるというのは、さっぱり訳がわからない」
「その川北先生は、幽霊を追いかけて、遠くまでいってしまったんじゃないですか。そのうち先生は、ふうふういいながら、ここへもどってこられるのではないですかな」
いろいろな説がでる。
「いや、川北先生は遠くへいくはずがないんです。先生の足跡は、松の木の下で消えているのです。遠くへいったものなら、先生の足跡がそっちへ続いていなければなりません」
道夫は、遠走り説をうち消した。
「でも、それはあまりにふしぎ過ぎるからねえ。松の下から垣根へぬけて往来へでれば、往来は土がかたいから、そこにはもう足跡がつかないわけでしょう。だから足跡が松の木の下で消えているように見えるのではないですか」
そういったのは、某省につとめる技術者であった。
「いや、そうではないのです。先生の足跡の最後のものがついている地点から、垣根を越えて往来までの距離は、約十メートルもありますよ。その十メートルの間に、どこにも足跡がついていないんです。すると小父さんのお話が本当だとすると、川北先生はこの十メートルの距離を、一度も地上に足をつかないで飛び越えたことになります。十メートルも跳躍することは人間業じゃできないことだと思います」
道夫少年のこの推理の正しいことが、誰にも了解された。が、そうなると、川北先生の失踪の説明は一層つかなくなる。ただふしぎふしぎというばかりであった。
「われわれの手に負えませんなあ。どうです。やっぱりできるだけ早くその筋へ申告して、警視庁の手で調べて貰《もら》うことにしてはどうですか」
「そうだ。そうする外、道がありませんねえ」
これで方針が一応おさまるところへおさまったようである。その証拠には、隣組の人たちはもう誰も発言せず、夕暗《ゆうやみ》の迫る中にじっと塑像《そぞう》のように立ちつくしていた。
が、そのときであった。突然、金切り声が一同の鼓膜《こまく》をつんざいた。女の声らしい。その声の起ったのは、どうやら木見さんの家の中のように思われた。一同ははっとおどろいて互いの顔を見合わせた。
「あ、あれはうちの家内の声のようだ」
武平はそういってかけだした。
「ああ、木見さんの奥さんの声……」
「さあ、皆いってみましょう」
一同は武平のあとを追い、庭をぐるっと廻《まわ》って、木見邸の表座敷の方へかけだした。
かけつけてみると、それは果して雪子の母親の発した叫び声だとわかった。
「何を見たって、やっぱり雪子の幽霊かッ」
武平は、座敷へ飛び上って、夫人をかかえ起しながら、息せき切ってきいている。
「わたしは、お父さんが外から家へ上って廊下を歩いていなさるのだと思っていたんです。でも、何だか変だから、立っていって廊下の方をすかして見たんですの。廊下はうすぐらくて、よく見分けがつかなかったんですけれど、たしかに黒い人影が向うへ動いていきます。背の低い、熊のようにまっくろな者が離家《はなれや》の方へ。……ああ、こわかった」
「雪子の幽霊なのか、幽霊じゃないのか」
「さあ、どうでしょうか、でも雪子の幽霊なら、その後姿はありありと見える筈なんですがね、ところが今見たのはただまっくろでしたよ」
「よし、そうか。離れの方へいったんだな。皆さん、手を貸して頂きましょう」
武平の言葉に、隣組の人たちはもじもじしながら、それでも上へあがった。そして武平を先にして廊下に一かたまりになって、たがいの身体を押しあいながら、雪子の研究室の方へ忍び足で近づいていったのである。
何者?
誰も彼も、息をのみ、全神経を耳と目に集めて、もし怪奇があらば、真先に自分がそれを見つけて声をあげるつもりだった。全身の毛穴がぞくぞくしてくる。足がだんだんと重くなって、先へ進みかねる。
と、研究室の中と思われるところから、ざらざらと硬い物のすれ合うような音がしそれに続いて、何だか溜息《ためいき》のようなものが聞えた。
「おッ……」
研究室を目指す一同の足は、もう一歩も前には進まなくなった。
(あれは何物だろう? あれは何の音か?)
そのとき、研究室の中で、第二の物音が聞えた。それは前回よりもずっと大きいはっきりした物音で、何か物がぶっつかったようで、それにぴいんと硝子《ガラス》の響くような音もまじっていた。
「早くいってみましょう。研究室へ……」
道夫が叫んだ。
「よし、いこう」
互いに相手を前へ押しやるようにして、一同はどやどやと研究室へなだれこんだ。
電灯がついた。道夫がそうしたのだ。
室内は明るくなった。一同は拳《こぶし》を固く握って、きょろきょろと各自のまわりを見廻《みまわ》した。
だが、何にも異状を発見することができなかった。
「いないぞ、どうしたんだろう」
「たしかに誰かこの部屋にいたんだが……」
いないとなると、一同は少しく元気を取り戻した。いない、誰もいない。研究室に隣合った寝室にも図書室にも、机の下にも戸棚の蔭にも、猫一匹ひそんでいなかった。
「いないぞ、変だなあ」
「でも、この部屋でたしかに人のいる気配《けはい》と物音がした」
「あれ[#「あれ」に傍点]はすぐ消えて見えなくなるのじゃないですか」
幽霊は――というのをさけて、あれ[#「あれ」に傍点]はといった。
「あれが、あんな大きな物音をたてるというのはふしぎだ。あれは元来静かなもので、ただ自分がかぼそい声をだして、『恨《うら》めしや』とかなんとか……」
「よしたまえ、そんな変な声をだすのは」
といっているとき、道夫が大声をあげた。
「わかった。これだ」
道夫は硝子窓を指《ゆびさ》している。
「えっ。わかったとは何が……」
「この硝子窓があいているのです」
「硝子窓は閉っているじゃないか」
「いや、この窓は一旦《いったん》あけられた上で閉められたんです」
「どういうのですって」
「つまり、何物かがこの部屋にいて、この窓を明けたんです。ああ、そうだ。それから彼は外へ飛び下りた、庭へですよ。そして外からこの硝子戸を元のように閉めた。だからこの硝子戸には、内側にかけ金がありながら、ほらこのようにかけ金が外れているのです。ねえ、木見さんの小父さん。この窓のかけ金は、いつもちゃんとかけてあるんですね」
「そうだ。いつもかけてある。厳重に戸締《とじま》りしてありました」
「すると、その窓を明けて、誰か外へ逃げだしたんだな」
「幽霊が外へ逃げだしたんですか」
「幽霊じゃないですよ。これはかけ金を外すくらいだから、生きている人間ですよ。まだその辺に隠れているかもしれない。皆さん、早く外へでて、見つけて下さい」
道夫がいった。
「そうだ。皆さん。半数は廊下を通って、庭へでてください。その頃、残りの半分はこの窓から庭へ飛び下りますから」
隣組の人たちは、まだ事情がはっきり呑《の》みこめないが、とにかく二組にわかれ、一組は廊下から表座敷を通りぬけて庭へ廻った。研究室に残った一組は硝子窓の下に飛びだす機会を待っていた。と、庭の方から叫び声が聞えた。
「いたぞ」
「こら、待てッ」
「逃がすな。皆、こい」
この声に、研究室にいた一組も、窓を開いて、薄暗い庭へ飛び下りた。そのとき、庭から廻った一組は、松の木の下をもぐって往来へ向かっている気配であった。
道夫は、一番後から窓を越して庭へ下りた。道夫の手には、携帯電灯が光っていた。それは研究室の雪子の机の上にあったもので、これ幸いと持ってでたのであった。
往来へでてみると、人々はがやがやいいながら、だんだん戻ってきた。
「暗いものだからね、とうとう見失ってしまった」
「相手が幽霊じゃ、もともとぼんやりしか見えないものですからねえ」
「やっぱり幽霊ですかね。私は、足音を聞いたように思いますよ。幽霊に足音はおかしいですからねえ。かねて幽霊には足がないと聞いていますからねえ」
「いや、私は足音を聞かなかった。そして幽霊を今田さんの塀のところまで追いつめたんだが、とたんに私は足を滑《すべ》らせて、はっとしたんですがね、それでおしまいでした。もう幽霊の姿はどこにも見えなかった」
「この眼鏡は、どなたの眼鏡でしょうか」
そういって、黒っぽい硝子の入った枠《わく》の重い眼鏡を一同の上に出してみせたのは道夫だった。彼はそれを松の木の下で拾ったのである。
誰もその眼鏡を、自分のものだとこたえる者はなかった。
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