「はい。金庫の一番奥へ入れておきます。三つ鍵を使わなければあかない引出へ入れます」
 課長は椅子から立上った。と同時に、もう幽霊事件のことは忘れてしまって、彼の注意力は他の捜査事件の方へ振向けられた。
 だが、課長が黄表紙のパンフレットを紙包から別にはなして、部屋の隅の大金庫へしまいこませたことは、せっかく蜂矢探偵が持ちこんだ大切な「幽霊の餌」を課長が勝手に処分したわけであり、そういうことは蜂矢探偵への信義を裏切ることにもなり、またやがて夕刻からおこなわれる雪子学士の幽霊招待の実験にも支障をおこすことになりはしないかと危ぶまれるのであった。

   出現の時刻

 古島老刑事は、さっきから、銀ぐさりのついた大型懐中時計の指針ばかりを見ている。
 もう夕刻であった。折柄《おりから》、空は雨雲を呼んで急にあたりの暗さを増した。ここ捜査課はいつもとちがい、この日は電灯をつける事が厳禁されていたので、夕暗《ゆうやみ》は遠慮なく書類机のかげに、それから鉄筋コンクリートを包んだ白い壁の上に広がっていった。
 課長の机の上には、雪子学士の研究ノートが数冊、積みかさねられてある。課長の椅子はあいている。課長の椅子の左横の席に、幽霊係の古島老刑事が、幽霊の餌の方を向いて腰をかけ、今も述べたように懐中時計の文字盤をしきりに気にしてびくついているのだった。その隣に、幽霊助手を拝命した猛者《もさ》山形巡査が、これは古島老刑事とは反対に、大入道であれモモンガアであれ何でもでてこい取押えてくれるぞと、肩をいからし肘《ひじ》をはって課長の机をにらんでいる。
 その他の席には、課員が十四五名、おとなしく席についている。しかし彼等は書類を見ているように見せかけてはいるが、実はそうではなく、いつでも課長の命令一下、その場にとびだせるように待機しているのだった。その中に課長の顔と蜂矢探偵の顔がまじっていた。隅っこの給仕席に二人は腰を下ろしているのだった。
「ほう、だいぶん暗くなって幽霊のでるにはそろそろ持ってこいの舞台になりましたよ」
 蜂矢探偵が、じろじろとあたりを見まわし、すぐ前にいる課長にいった。
「そんなことは無意味さ。原子力時代の世の中に非科学きわまる幽霊などにでられてたまるものか」
 課長は失笑した。しかしその声はいくぶん上ずっているように思われた。
「いや、とつぜん原子力時代がきてわれわれをおどろかせた如《ごと》く、今日こそ幽霊というものを科学的に見直す必要があると――或る人がいっているんですがね」
「そんなことをいう奴は、よろしく箱根山を駕籠《かご》で越す時代へかえれだよ。蜂矢君、もし幽霊がでなかったら、君にはいいたいことがたくさんあるよ」
「そのときつつしんで拝聴しましょう。しかしその反対に幽霊がこの部屋にでてきたら、賭は僕の勝ですよ。そのときは課長ご秘蔵の河童《かっぱ》の煙管《きせる》を頂きたいものですがね」
 河童の煙管というのは、課長が引出に入れて愛用している河童の模様をほりつけた、江戸時代の煙管のことであった。
「河童の煙管でも何でもあげるよ、君が勝ったときにはね」
「それは有難い。課長あなたの河童の煙管の雁首《がんくび》のあたりまでがもう僕の所有物にかわったですよ」
「なに、煙管の雁首がどうしたと……」
「しッ」と蜂矢が田山課長に警告をあたえた。「しずかに、そしてあなたの机の前の空間をよく見てごらんなさい」
「えっ!」
 課長の目は、蜂矢から教えられたとおりに部屋の中央に据《す》えてある自分の大机の方へ向けられた。と、彼の眼は大きく見はられた。そして顔が赤くなり、それからさっと青くなり息がはずんできた。額からは玉の汗がたらたらとこぼれおちた。
 見よ、大机の上に、ぼんやりしてはいるが、見なれない女人の姿がおっかぶさっている。若い女人のようだ。服はぼろぼろに破れてみえる。
 部屋のうちは、水をうったように静かであった。が、それは何人も少しの時間をおいてほとんど同時に雪子学士の幽霊の姿を認め、そして同様なる戦慄《せんりつ》におそわれて硬直したためだった。
 その幽霊に対し最も近い距離に席をとっていた古島老刑事は最も幽霊の発見がおそかったようである。その証拠に彼は大きな懐中時計を掌《てのひら》にのせて指針の動きに見とれ、首を亀の子のようにちぢめていたが、そのとき隣にいた山形巡査が古島の袖をひいて注意をしたので、それで始めて首をのばし顔をあげて指さされる空間へ視線を送ったが、
「あっ、でた、幽霊が……」
 と叫ぶなり、老刑事の顔色はたちまち紙のように白くなり、そして彼の身体はそのままずるずると椅子からずり落ちて、彼の頭は机の下にかくれてしまった。それをきっかけのように、部屋のあちこちで、驚愕《きょうがく》と恐怖の悲鳴が起った。
 そのうちに、
前へ 次へ
全34ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング