まったですね」
と蜂矢探偵は椅子から立上った。
「それではよろしく用意をととのえておいて頂くとして、僕はいったん引揚げ、夕刻にまたやってきます。それから課長さん。僕がここに持ってきた『幽霊の餌』は大切な品物ですから、盗難にかからないように保管しておいて下さい」
「盗難にかからないようにだって? 冗談じゃないよ、ここは捜査課長室だよ、君……」
課長が眼をむいて破顔した。
「あ、これは失言しました。あははは、とんだ失礼を……」
そういって蜂矢探偵は軽く会釈《えしゃく》すると、部屋をでていった。
信用に背《そむ》く人
「課長さん。幽霊を本気でこの部屋へ呼びこむんですかね」
古島老刑事は、蜂矢探偵の姿が消えると、さっそく課長の机の前へいって詰問した。
「もちろん幽霊なんてものを捜査課長が信ずるものかい。そんなことをすれば、たちまち権威がなくなってしまう。しかし蜂矢と約束した以上、一応その幽霊実験をやらねばならない。どうせ幽霊はでやせんよ。その上で蜂矢を一つぎゅっとしぼってやるのだ、ちょうどいい機会だからな」
「すると、やっぱり幽霊をこの部屋へ案内しなけりゃならないのですね。いやだねえ」
「でやしないというのに……」
「いや、わしは幽霊がでてくるような気がしてなりませんや。課長、その気味の悪い紙包の中には一体何が入っているんですか」
「さあ何が入っているかな、調べてみよう」
課長は、蜂矢がおいていった紙包の紐をほどいて、机の上にひろげてみた。するとでてきたのは数冊から成る木見雪子学士の研究ノートであった。これは、木見邸に幽霊が現われるようになってから後に、誰が持去ったのか、研究室の卓子《テーブル》の上から消えてしまったものであった。しかし田山課長は、今そのことを思いだしてはいなかった。
「なんだかむずかしい数式をいっぱい書きこんであるね。これは何だろう。おやキミユキコと署名があるぞ。ふふん、するとこれは例の木見雪子の書いたものかな。一体何の研究をしていたんだろう。さっぱり分らんね、このややこしい数式、それから意味のわからない符号と外国語……」
課長は、雪子の研究ノートを前にして、すっかり当惑してしまったかたちだった。
が、しばらくして課長は気をとりなおして部厚い雪子学士の研究ノートの頁《ページ》を、ていねいに一頁ずつめくりはじめた。
そこにならんでいる文章がいかに難解であろうと、頁をめくっているうちにはたまには課長に分る文句の一つや二つはあってもよさそうなものだと思ったので……。
その課長の労は、ついにむくいられたといっていいであろう。というわけは、彼はその研究ノートの頁と頁との間にはさまっている、別冊の黄表紙のパンフレットを見つけたからである。そのパンフレットの表紙には、めずらしく日本語で表題が書いてあった。それは『消身術に於《お》ける復元の研究文献抄』と読まれた。
「ふうん――」
課長はうなって、その表題に見入った。消身術に於ける復元――というのは何だろう。消身術とは身体を消して見えなくする術の事ではなかろうか。それは一種の忍術だ。妖術《ようじゅつ》である。こんなパンフレットを秘蔵しているところから考えると、木見雪子はそんな妖術の研究にふけったあげく、姿を現わしたり、隠したりしてあのふざけた幽霊さわぎをひきおこしたものではあるまいか。課長の眼はそのパンフレットの各頁の上を走りだした。
文献の内容は、消身術に関するものではなくて、いったん人間が消身術をおこなってから後、もとのように人間が姿をあらわすにはどうすればいいか――つまりそれが復元ということであるが、その復元の研究について、古《いにしえ》から最近のものまでの文献が、番号をうってずらりと並べてあり、そして各項について読後の簡単な批評と要点とが書きこんであった。もしも課長が大学理科の卒業生だったら、そこに集められている文献が、この事件の謎を解く鍵の役目を果すものであることを見破ったはずであるが、課長はそうでなかったので、それほど昂奮はしなかった。しかしさすがに犯罪捜査の陣頭に立つ人だけあって、この黄表紙のパンフレットを重要資料とにらんで、それを研究ノートから引き放し、服のポケットへ入れたのであった。
それからも課長の仕事はしばらく続いたが、やがて研究ノートの最後の一冊を見終ると、両手を頭の上にあげて背伸びをした。
「おい古島君。この書類を元のように包んでくれ。ひろげて中を見たということが分らないようにね」
課長はむりな註文をつけて、幽霊係の古島老人に命じた。
「ああ、それから山形君」といって金庫番の柔道四段の青年を呼んでポケットから黄表紙をだした。
「このパンフレットを金庫の中にしまってくれ。他の重要証拠品といっしょにしてね、奥へ入れておくんだ」
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