雪子学士の姿はだんだん明瞭度を加えた。そして彼女のしなやかな手が課長の卓上にのびて研究ノートの頁《ページ》をぱらぱらと音をさせて開いた。それは急いでなされた。全部の研究ノートが二三度くりかえし開かれたが、彼女の硬い顔はいよいよ硬さを加えた。彼女はついにノートの表紙を手にもって強くふった。それは何か彼女のさがしもとめているものが見つからないので、じれているという風に見えた。
 彼女はついに手を研究ノートからはなした。そして困り切ったという表情で、机上に立ちつくしていた。
 そのときだった。室内に靴音がひびいた。
 と、田山課長の姿が走った。彼は自分の席に戻って、雪子学士に向きあった。
「あなたは木見雪子さんですか」
 課長は、いささかふるえをおびた声でぼんやりした雪子の姿に呼びかけた。
 それに対して、雪子は返事をしなかった。課長のいっている言葉が聞えないのか、それとも聞えても知らないふりをしているのか、そのどっちか分らなかった。――が、雪子学士は課長を睨みすえると、研究ノートの山を指《ゆびさ》しそして両手を前につきだした。何かを催促しているようだった。
 課長は胸をぎくりとさせたが、強いて平気をよそおい、首を左右にふった。
 すると雪子学士の面に焦燥《しょうそう》の色があらわれた。彼女は大きく眼を見開き、室内をぐるっと一めぐり見わたした。と、彼女は課長の机の前をはなれて、すたすたと室内を歩きだした。その行手に大金庫があった。――一同は固唾《かたず》をのんで、雪子の行動に注目した。
 雪子学士は、果して大金庫の前でぴたりと足をとめた。彼女の顔が心持ち喜びにゆがんだようであった。それから次に、意外な事が起こった。雪子学士は、その大金庫のハンドルに手をかけると、その大金庫をかるがると引っぱりだしたのであった。約四百キロはあるはずの大金庫が、雪子学士の手にかかると、まるで紙やはりまわした籠《かご》のように動きだした。そして雪子の姿と大金庫とは、窓の向うに滑りだしたのであった。
「待てッ」
 呆然《ぼうぜん》とこの場の怪奇をながめつくしていた幽霊係の助手の山形四段が、雪子の姿を追って後から組みつこうとしたが、それは失敗し、彼はいやというほど窓際の壁にぶつかって鼻血をたらたらとだした。
 そのさわぎのうちに、雪子の幽霊と大金庫はゆうゆうとこの部屋から姿を消し去った。
「あっ、しまった。大切な証拠物件を何もかもみな持っていかれた。うむ」
 と課長はようやく一大事に気がついたが、もうどうしようもなかった。
 幽霊の賭は、遂に課長の負となり、蜂矢探偵が勝ったわけである。その蜂矢探偵の姿はいつの間にかこの部屋から消え失せていた。

   大金庫やーい

「おい、何をしとる。早く金庫をとりもどさんか」
 田山課長は、室内をあっちへ走りこっちへ走り、両手をうちふってわめきたてる。
「ところが、とりもどしたいにも、大金庫はどこへいったか分らんのです」
「そこの壁の中へ、すうっと入っていったがねえ。幽霊が、こんな手つきをして引っぱっていったが……」
「ばかなッ」課長は怒りにもえて課員をどなりつけた。
「そんなばかばかしいことがあってたまるか、大金庫は硬くて大きいんだぞ。それが壁の中へ入るなんて、そんなことは考えられん」
「いや、課長、たしかにすっと壁の中へ入っていったです。私はそれを追いかけていって、このとおり壁で鼻をいやというほどつぶしてしまいました」
 金庫番の山形は、鼻血をだして赤く腫《は》れあがった自分の鼻を指した。
「そんなことはない。君たちは、そろいもそろって眼がどうかしているんだ。もっとよくそのへんをさがしてみるんだ」
 課長はますますいきりたった。
「ですが課長。あの重い大金庫がそうやすやすと動くはずがないんです。移動するにはいつも十人ぐらいの手がかかるんですからね。――ところが、ごらんのとおり、大金庫のあったところはぽっかりと空《あ》いています。わけが分らんですなあ」
「なるほど、たしかにさっきまでここに大金庫があったわけだが、今は無い!」
「課長! 重要なことを思いだしました」
 といって課長の腕をとった課員がいた。
「なんだ。早くいえ」
「この前、木見の家の研究室で私が聞いたことですが、あの女の幽霊は、あつい壁でも塀でも平気ですうすう通りぬけていったそうですぞ。だから今もあの幽霊は、この壁を通りぬけて外へでていったのじゃないかと思うんです」
「しかしあの大金庫が壁を通るかよ」
「通るかもしれませんよ。この前のときは、あの幽霊は本をさらって小脇に抱えこんだまま、壁をすうっと向うへ通りぬけましたからね。だから、あの幽霊の手にかかった物は何でも壁を通りぬけちまうんではないでしょうかね」
 と、その課員はなかなか観察の深いところを見せた。

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