。
川北先生は、相手が一通りの手段ではいかないことを知ると、態度を改めて、
「ねえ君。雪子さんの行方が知れないで木見さんのお宅ではほんとうにお気の毒にも歎《なげ》き悲しんでいられるのです。前後の事情から考えると、君はそれについて何かを知っていられるように思う。どうかわれわれなり、木見さんの家の人を助けると思って、君が知っていることを話して下さらんか。どんなにか感謝しますがねえ」
川北先生の話をしている間に老浮浪者の面《おもて》には、何か感情が動いた瞬間があった。
「ねえ、分るでしょう。そうだ、これについて教えて下さい。さっきあの廊下を伝わって研究室の方へきた若い洋装の女の人は庭園の方へでてこなかったですか」
老浮浪者は、一つだけ頭を横に振った。見なかったという返事らしい。
「ああ、ありがとう。次に……そうだ、君は窓から、今の話の若い洋装の女が部屋にいたのを見ましたか」
老浮浪者は、かるく一つうなずいた。――道夫は老浮浪者が返事をしていると知って、新しい希望に心を躍《おど》らせた。
「ありがとう。もう一つ――研究室から研究ノート第九冊が見えなくなったが、誰が持っていったんだか、君は知っていますか」
川北先生は重大な質問を発した。老浮浪者はどんな答をするかと、道夫は固唾《かたず》をのんで、相手の髯面を見つめた。
すると老浮浪者は、大きな手袋をはめた両手を、自分の頭のところへあげ、長い髪《かみ》の毛を示すらしい手つきをし、それから片手で女の身体らしい形を作ってみせた。
「なに、するとあの研究ノートは、あの若い女が持っていったというのですか」
先生は、さっと顔を硬《こわ》ばらせて聞いた。そんな奇怪なことがあっていいだろうか。いつの間にかあの生ける幽霊は研究室へ入って、あの研究ノートを持っていったものらしい。
老浮浪者は、また一つうなずいたが、そのあとで大口をぱくぱく開いて、声なき笑いをしてみせた。
「じゃあもう一つ。あの若い洋装の女はどこからあの部屋をでていったですか」
老浮浪者は大きく首をかしげたが、それには答えようともせず、すたすたと歩きだした。川北先生があわてて老浮浪者の袖《そで》をとってとどめた。が老浮浪者はその袖を払って川北先生を押し返した。よほどの力だったと見え、川北先生はどーんと後へ引っくり返って土にまみれた。道夫がおどろいて老浮浪者にとびついたが、たちまち彼も、はげしく突き飛ばされた。なんという怪力であろう、老人のくせに……。
老浮浪者は、さっさと立去った。
怪しい影|来《きた》る
その次の日は土曜日であったので、お昼がすむと、川北先生は道夫といっしょに木見邸を訪ねた。
雪子の母親は寝込んでいた。昨日雪子の幽霊をみてからすっかり気を落してしまったのである。
娘は死んだものに違いないと考えるようになったからだ。
川北先生と道夫とは、まだそう決めるのは早すぎることを交《かわ》る交る説いた。そして先生よりも道夫の方がそれを熱心にいいはったのだった。
雪子の父親は不在だった。川北先生と道夫は、雪子の母親の許しを得て、研究室をもう一度調べさせてもらうことにした。
例のうす暗い長廊下を渡って、別棟の研究室へいった。扉の錠を外して、再び室内へ入った。
「ほら、やっぱり無い」
川北先生は、部屋の中央に近い卓子《テーブル》のところへいって、本立の間に並べて立ててある、研究ノートの列を指した。前日同様、研究ノート第九冊は見えず、それがあったところだけが、歯が抜けたようになっていた。道夫少年は背中が急に寒くなった。
「ほんとうに、なぜ無くなったんでしょうね。幽霊がもっていってしまったんでしょうか」
道夫には解けない謎だった。川北先生も首をひねって当惑顔だった。
「幽霊なら、物を持っていく力はないだろうと思うがね。物を持っていくかぎりそれは幽霊ではなく、生きてる人間だと思う」
先生はそういった。
そこで、どこかこの部屋から外へ抜ける秘密の通路があるに違いないという見込みをたてて、二人は部屋を今日こそ徹底的に調べにかかった。
研究室だけではなく、それに続いた図書室や寝室も調べてみた。壁も叩《たた》いて、調べ、天井は棒でつきあげてみたし、床はリノリウムのつぎ目をはがしてまで調べた。戸棚類はみんな動かした。積上げてあった本の山は、いちいちおろしたし、重い器械は動かした。
そんなに念入りに調べてみたが、その結果は見込みはずれであった。
「どこにも出入りできるところはないと断定しなければならなくなったわけだね」
先生は三時間に近い力仕事と緊張とにすっかり疲れて、椅子《いす》の一つに身体をなげかけていった。
「ほんとうに秘密の出入口はないのですね。すると昨日現われたという雪子姉さんの姿は、やっぱり幽
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