は、雪子の母親だった。その母親のいうことに、たしかに雪子と思われる後姿《うしろすがた》の人影が、こっちの離家《はなれや》へ向って廊下を歩いていくのを見かけたので、すぐ声をかけながら後を追ってきたのだという。
 この話は一同をおどろかせた。そこで声をかけながら皆は其処此処《そこここ》を懸命に探したが、雪子の姿はどこにもなかった。どこからかでていったのではないですかと川北先生が聞いたが、武平夫妻の話では、この離家は出口がないのででていける筈はないし、窓も皆しまっているという。まことに変な話だ。
「お前、気の迷いじゃないか」
 武平はきいた。すると母親は首を強く左右へふって、
「いえ、たしかに見ましたですよ。廊下をこっちへ歩いていくのを……」
「変だね。でもたしかに入ってこないよ」
「じゃあ、あれは幽霊だったでしょうか」
「幽霊? そんなものが今時あるものか」
「いや、幽霊ですよ。幽霊にちがいないと思うわけは、後姿は雪子に違いないんですが、背がね、いやに低いんですよ」
 そういって武平夫妻がいいあらそっているとき、川北先生が突然大きな声をあげた。
「これは変だ。いつの間にか『研究ノート』の第九冊がなくなっているぞ。さっきまでたしかに第一冊から第九冊までそろっていたのに……」
 先生は丸卓子の上にならんだ「研究ノート」の列を指しながら唇《くちびる》をぶるぶるふるわせていた。
 怪また怪。果《はた》してそれは雪子の幽霊だけだろうか。引抜かれた「研究ノート」第九冊は誰が持っていったか。木見雪子学士の研究室には深い異変がこもっているように見える。

   問答《もんどう》

 道夫のおどろきはその絶頂に達した。
 雪子の幽霊が廊下を歩いてこっちへきたというのに、その影も形もない。そして室内にさっきまではたしかにあった研究ノート第九冊がなくなっているというのだ。なんという不思議なことの連続だろうか。
 が、道夫は大きなおどろきにあうと同時に勇気が百倍した。それは、今こそ一つの機会が到来しているのだと思った。雪子姉さんはかならずどこかこの付近にいるのに違いない。そういう気がした。そしてもっと熱心に、もっと機敏に探すならば、今にも雪子姉さんを発見できるのではないか。雪子姉さんはかならず生きている。でなければ、さっきまでこの部屋にたしかにあった研究ノートが突然紛失するなどということがあってたまるものではない。この廊下、この別棟にはほかに出入口はない行停《ゆきどま》りとは聞いたがどこかに誰も知らない抜け道があるのでなかろうかという気がした道夫は、いきなり研究室の北側の窓のところへかけよって外を見た。そこは庭園になっているのであるが、
「あっ、あいつだ」
 と、思わず大きな声で叫んだ。
 道夫の目が捕えたのは、今しも庭園の木蔭《こかげ》をくぐって足早に立去ろうとする老浮浪者の姿であった。
「誰?」
 川北先生が道夫の傍へ飛んできた。
「あの怪しい老浮浪者です。あいつを捕えましょう。あいつは、この窓の下から中の様子を見ていたか、それともこの部屋へ出入したかもしれないんです」
「この部屋へ出入りができるとも思われんが、とにかく捕えて詰問《きつもん》しよう。家宅侵入をおかしたことは確かだろう」
 川北先生と道夫は玄関へとびだした。そこで老浮浪者の先まわりをして、表の塀の西の方へ廻り、裏道へでた。
「やっ」
「いたぞ」
 細い道で、双方はぱったり出会った。川北先生と道夫は、相手をにらめつけながら、じりじりと傍へ寄った。老浮浪者の目にはちょっと狼狽《ろうばい》の気色《けしき》が見えたが、すぐ平静な態度になって、二人の横をすり抜けて通ろうとした。
「待ちたまえ。ちょっと聞きたいことがある」
 と川北先生がいった。
 すると老浮浪者はかぶりをふって、そのまま強引に通り過ぎようとした。
「待ちたまえというのに……」
 と、先生はとうとう老浮浪者の長い外套《がいとう》の腕をつかんで引きもどした。すると老浮浪者は足を停《と》めてのっそりと立停った。
「何をしていたのかね、君は。さっき木見さんの庭へ入りこんで怪しい振るまいをしていたが……」
 老浮浪者は、それを聞いても知らんふりをしていた。
「聞こえないのか、君は……」
 と、先生はもう一度、同じことを繰返した。すると老浮浪者は、ごそごそする髯面《ひげづら》を左右にふった。道夫はそれを見ると、さっきからこらえていた憤慨《ふんがい》を一時に爆発させて、
「僕はちゃんと見ましたよ。あんたが窓の下から逃げだしたところをね。木見さんのお嬢さんをかどわかしたのはあんたでしょう」
 それでも老浮浪者は、頭を左右にふるばかりであった。その質問を否定するのか、自分は耳が聞えず、二人のいうことが聞き取れないというのか、どっちだか分らなかった
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