霊だったのでしょうか。それとも、気の迷いで、見たように思ったのでしょうか」
「いや、気の迷いなんてことはないよ。お母さんが見たばかりでなく、実は先生も雪子さんらしい姿が廊下から、この部屋をのぞきこんでいるところを、実際に見たんだからね」と、川北先生は、あの話をした。
「それにあの怪しい老人の浮浪者も見たらしいからね。しかもあの研究ノート第九冊を、雪子さんが持去るところを見たといったようだ。とにかく三人も見た人があるんだから、昨日ここへ雪子さんが姿を現わしたことは間違いなしだと思う」
「じゃあ、やっぱりそれは雪子姉さんの幽霊ですね」
「問題はそこだ。果して幽霊かどうか。もう一度現われてくれれば、きっとそれをはっきり確めることができると思うんだが……」
 そういって川北先生は、深刻な表情をした。日はもう暮れ方に近づき、それに雨がきたらしく雲が急に重く垂《た》れこめて、室内は暗くなった。道夫は壁のスイッチをひねって電灯をつけた。川北先生も椅子から立上がった。
「さあ、これからどうするかな」
 そういって先生は、次の捜査方針をどうたてたものかと、室内をぐるっと見渡した。
「おやッ。あ、あ……」
 先生が異様な声をだした。道夫はそのとき戸棚の中の薬品を見ていたのだが、先生の声におどろいて、その方をふりかえった。すると先生は蒼白《そうはく》にして、塑像《そぞう》のように硬直していた。そして先生の眼は戸口へ釘《くぎ》づけになっている!
「あっ!」
 こんどは道夫が叫んだ。ふりかえった彼の前をすれすれに、朦朧《もうろう》たる人影が、音もなく通り過ぎて部屋の中へ入ってきた。何であろう。何者であろう。
 道夫は全身を電気に撃たれたように感じ、怪しい影の後姿《うしろすがた》を見つめたままその場に立ちすくんだ。

   幽霊追跡

「木見さんのお嬢さんですね。お話があります。お待ちなさい」
 川北先生は、あえぎながら、これだけの言葉をやっと咽喉《のど》からしぼりだした。
(そうだ、雪子姉さんだ)
 朦朧たる人影は後姿ながら、それは道夫に見覚えのある服をきた雪子に違いない。
 怪しい人影は、図書室の入口の前あたりをしずかにあるいていた。川北先生と道夫の位置は、この怪しい影をはさんでいる関係にあった。
 が、怪しい影は、川北先生に返事をしようともせずそのまま図書室の中へ消えた。
「お待ちなさい、お嬢さん」
 川北先生は、勇気をふるいおこして、怪しい影の後から図書室へ飛びこんだ。道夫もそれに続いた。あれが雪子の幽霊か幽霊でないか、たしかめるには絶好の機会だ。そう思うと、さきほどの恐怖と戦慄《せんりつ》が、幾分へった。
 と、雪子の怪影は、図書室の真中にたたずんでいた。川北先生は腕をのばして、怪影の腕をつかもうとした。
 すると怪影は、風のようにすうっと前へ移動し、先生の手は空《むな》しく空気をつかんだ。
「しばらく、しばらく、お母さまが心配していられるのです。しばらく待って下さい」
 川北先生は哀願するように、怪影の後から呼びかけた。だが怪影の耳には、その言葉が入らないのか、そのままつつうと前に進んだ。
「あ、外へでる。壁を通りぬけて……」
 と叫んで、道夫はわれとわが眼を疑った。が、それは事実だった。怪影は、図書室の奥の壁につきあたると、そのまま壁の中に姿を消していったのである。
「ああ!」
 川北先生もそれを見て取って、今や壁の中に消えんとする怪影を引きとめようと突進したのであるが、それは僅《わず》かに時おそく、先生は壁にいやというほどぶつかったばかりだった。
「失敗《しま》った。どうしよう」
 川北先生の顔は、子供の泣顔のようにゆがんでいた。
「窓をあけて、追いかけましょう。間にあうかもしれないです」
「そうだ、窓をあけろ」
 身の軽い道夫は、大急ぎで図書室をでて研究室に入ると雪子の大机の上へとびあがり窓をあけた。と彼の横をすりぬけて川北先生が猟犬のように窓からぽいと外へ飛びだした。
 道夫もそれに続いて、窓を飛び越え、庭園へ下りた。
「あ、痛……」
 道夫の飛び下りたところには、生憎《あいにく》石があったために、彼は足首をぎゅっとねじり、関節をどうかした。身体の中心を失った道夫はその場に横たおしとなった。
「ああっ、痛い……」
 起上ろうとするが、右足首の関節が痛いので力がはいらない。残念である。彼は川北先生の方が心配になり、足首を手でおさえて、芝生《しばふ》の上に半身を起した。
「おお……」
 先生は、見事に雪子をとらえていた。松の木と八《や》つ手《で》のしげっている暗い木蔭の下で、先生は雪子の後から組みついていた。このとき雪子の姿が、さっきよりもずっと明瞭《めいりょう》に見えた。道夫は、先生に力を貸さなければと、起上ろうとした。が、やっぱり駄目
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