、よかった。四次元世界に漂《ただよ》う者にとっては、どうしてみても三次元世界に火をつけることができなかったのよ。道夫さんあなたはその大困難を解決して下さった。あたしの生命の恩人だわ。ああブンゼン灯に火がついた。こっちのブンゼン灯にも火をつけてよ。ああ、救われる。貴重な薬が今こそ作られるのだ」
雪子学士の幽霊は、まるで火取虫のようにブンゼン灯のまわりをぐるぐると踊りまわって喜ぶのであった。
最後の機会
道夫はそれからも雪子のさしずによって、いろいろな仕事を手伝ってやった。棚からレトルトをおろして金網をおいた架台の上にのせたり、でてくるガスから湿気を取るために硫酸乾燥器のトラップをこしらえたり、沈殿《ちんでん》した薬物を濾紙《ろし》でこしたりした。そういう操作はほとんど全部道夫がした。雪子は命令したり、測定したり、判定したりするばかりだった。
深夜のこの作業は、誰にも邪魔をされないで進んでいった。
雪子はだんだんと昂奮の色を示し、じっとしていることができなくて部屋の中を歩きまわる。
「ああ、もうすこしだ、もうすこしだ」といって蛇管《じゃかん》の中をのぞいてみたり、「これならきっと夜明けまでに元の世界へもどれるわ」などとつぶやいたり、その他わけのわからぬことをぶつぶついったりした。
「できた薬を姉さんは呑むんですか」
道夫が聞いた。
「そうなのよ」
「のむとどうなるの。四次元世界をはなれて三次元世界へもどれるというの」
「ええ、そうなの」
「すると今こしらえている薬は、いったいどんな働きをするの」
それには雪子は答えなかった。
「話してくれないのだね。じゃあ雪子姉さん。姉さんはどういう方法で、四次元世界へはいっていったの」
「あたしが三次元世界へもどったら、何もかもくわしくお話をしてあげるわ。それはあたしがたいへんな苦労をして見つけた方法なのよ」
「要点をいえば、どんなこと?」
「いやいや。今はいわないの。あとでゆっくりお話をしてあげる」
「四次元の第四の軸って、時間の軸じゃない」
「そんなもんではなくてよ。……ほら道夫さん。液がなくなったわ。新しい液を注《つ》がなくては……」
雪子の求める薬物ができ上ったのは、もう暁《あかつき》に近かった。
雪子はその薬物をコップへ移して水を加えてかきまわした。その上へ、別の薬品をいくつも投げこんだ。薬液の色はいくたびか変り、最後には薬がかかった色の液が白い泡をたてて沸騰《ふっとう》し、もうもうと白煙が天井の方まで立昇った。雪子はそれを見ると狂喜してコップを眼よりも上に高くさしあげ、
「ああ、ついにあたしは、元の世界へかえれるんだわ。そしてあたしの研究の勝利が確認されるんだわ。ああ、なんというすばらしい喜び、すばらしい感激でしょう」
といってから、貴重な薬液の入った泡立つコップをもう一度高くさし上げ、それからコップを自分の唇のところへ持っていって、一気にそれを呑みほしたのだった。
からとなったコップが、雪子の唇をはなれ、しずかに台の上におかれた。が、次の瞬間、コップは横にとんではっしと壁にあたり、粉々に砕《くだ》けた。雪子が腕を大きく振ったからであった。腕だけではない。雪子は腰から上の上半身をゼンマイ仕掛けの乗馬人形のように踊らせて振りまわした。髪がくずれて焔《ほのお》のように逆だち、両眼は皿のようにかっと見開き、口は今にも裂けそうになったが、とたんにはげしい痙攣《けいれん》と共に口から真黒い汁《しる》をだらだらと吐《は》きはじめた。と、雪子の容貌はたちまち一変して、目の前に黒い隈《くま》ができ頬はこけ、顔面にはおびただしい皺《しわ》があらわれたと思ったら、彼女はばったり実験台の上に倒れてしまった。そして全く動かなくなってしまったのである。
あまりのことに、道夫もまたその場に気を失って倒れてしまった。
道夫が気がついてみると、彼は同じ部屋で、浮浪者姿の老人に抱かれていた。あの怪しい老人がいつこんなところへ入りこんだものか、ふしぎであった。その外に、雪子の両親がいた。
「道夫君、しっかりしたまえ」
老いたる浮浪者の声は、意外にも若々しい響《ひびき》を持っていた。そして道夫は、それをどこかで聞いたことのある声に思った。
それも道理、道夫がもう大丈夫ですと答えると、その老人は帽子を脱ぎ、それから白髪頭《しらがあたま》を脱いで机上に置き、頬につけていた髯《ひげ》をむしりとった。すると老人の顔はなくなって、なんと名探偵蜂矢十六の若々しい顔がでて来たではないか。
「雪子姉さんは?」
道夫が、おどろきの中に叫んだ。
「あっちの部屋へ遺骸《いがい》をうつしてある。やっぱりだめだったよ。雪子さんにはあの薬が強すぎたと見える。あの薬を呑むことが最後の機会だったんだがねえ。惜しい
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