に見ているでしょう。気のまよいじゃないわねえ。ところがあたしは、一種の幽霊なのよ。この世の人ではないのよ。うそだと思ったらあたしの身体にさわってごらんなさい。さあ、さわってみてよ。道夫さん」
 そういわれて道夫は、気味がわるかったけれど、雪子のことばにしたがわないわけにもいかないので、椅子から立上ると、手をのばして机越しに雪子の腕をつかんでみた――いや、つかんだつもりだったが、実際は手ごたえがまるでなく、何にもない空間をかきまわしているのと同じだった。しかも眼で見ると、そこにはちゃんと雪子の身体がある。道夫は冷水を頭からあびたようにぞっとして、手を引込めた。
「ほほほほ、そんなおっかない顔をするものじゃなくてよ」
 雪子は顔をゆがめて笑った。さびしい笑いであった。
「分ったでしょう。あたしの姿はちゃんと見えているのにあたしの身体は手にさわれないということを。……しかし、今のは、あたしがわざと道夫さんの手にさわらないように、ある行動をとったためなの。そこでもう一度さわってごらんなさい。あたしの手首に……」
 そういって雪子学士は、道夫の方へ手をさしだした。
 道夫は困った顔をした。あのような気味のわるいことは一度経験すればそれで十分だと思った。だが雪子学士のあやしい影がさあ早くさわってごらんとさいそくするので、それをしないわけにはいかなくなった。彼はおそるおそる手をのばして、雪子の手と見えるあたりをさぐってみた。
「あ!」
 道夫は思わずおどろきの声をあげた。さっきとは違い、そこにはちゃんと雪子の手があったからだ。氷のように冷たい手ではあったけれど。……道夫は両手で雪子の手を握った。と、たちまち気味がわるくなった。さっき経験したことのある気持のわるさ。そうだ、雪子に手をとられて、川北先生の病室から脱《ぬ》けだしたときのあのいやな気持と全く同じだ。
「そこで道夫さん、あたしの手首のもっと上の方をさわってごらんなさい。手首から胸の方へ、あなたの手を移動していってごらんなさい」
 雪子に命ぜられると、なぜか道夫はそれにしたがわないではいられなかった。気持の悪いのを一所けんめいにこらえて、道夫は雪子の手首をそろそろと腕の方へとなであげていった。するとまもなく道夫は大きなおどろきにぶつかって気が遠くなりかけた。というわけは、雪子の手首がそのすぐ上のところで手ざわりがなくなっているのだった。
 そのくせ、眼で見ると、雪子の手は、手首から腕へ、腕から肩へとちゃんと続いていたのである。さわってみて、手首しかない。眼で見ると手首から上はちゃんとしている。なんという気味のわるいことであろう。気味わるさは、その切りはなされたような手首が、道夫の両手の中でもぞもぞ動きだしたときには絶頂に達した。道夫はとうとう本当に気絶してしまった。
 それからどのくらいの時間がたったか分らないが、道夫が気がついたときには、彼は机にうつ伏せになり、そして雪子の幽霊が彼のまわりをうろうろ走りまわっているのを発見した。
 道夫が気がついたのを見た雪子の幽霊は、たいへんよろこんだ。
「道夫さん。しっかりしてよ。そんなに気が弱くてはだめね」
「だって、仕方がないや」
「幽霊なんかこわがっていてはだめよ、何でもないんだから……」
「だって……」
「さあ、これをごらんなさい」
 雪子は道夫の前へ一枚の紙を持ってきてその上に鉛筆で図をひいた。
「これは平面、すなわち二次元の世界よ。それはしずかな水の表面だと仮定しましょう。今その上からお芋《いも》をおとしたとしましょう。お芋はもちろん三次元の物体です。すると二次元世界の生物は、それをどんな風に感じるでしょうか」
 雪子は熱心に語りだした。道夫はだまって聞いている。
「お芋の尻尾《しっぽ》が、はじめて水の表面についたときは、二次元世界では、お芋を小さな点と感じます。分るわねえ。――お芋はだんだん下におち、小さな点だと思ったものはだんだんひろがってきます。つまりお芋と水の交わったところを考えればいいのよ。――別なことばでいえばお芋がはじめて水にぬれた部分のことを考えればいいのよ――二次元の世界の生物は大きくなる円を感じます。お芋の一番|胴中《どうなか》の太いところが水の表面についたとき、二次元世界では、最も大きくなった円を感じるわけね。それから先は、お芋のまわりはでこぼこしているので、その円が妙にうごくように感じます。そうでしょう」
「うん」
 道夫はうなずいた。
「そうだわねえ。そのうちにお芋は大部分が水につかり、だんだん細い方になるもんだから、二次元世界では、円がだんだん小さくなっていくことに気がつく。そして最後に、お芋がすっかり水につかってしまうと、小さな点も消えてしまって、何にも見えなくなる。さあそこでこのお芋の通りすぎたことを、
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