帽子《なかおれぼうし》をかぶって、そのつばを下げ、額から耳のあたりから頸《くび》のうしろまですっぽりかぶっていた。服は、長いだぶだぶのレーンコートを着ていたが、質はよいと見え、破れている箇所は一つもなかった。そしてコートの奥にはカーキ色の服ともシャツともつかぬものを着ているらしく、はでな赤いネクタイをむすんでいた。靴も、大きなゴム長をはいていて、雨であろうと天気であろうとぬがなかった。彼はポケットから、大きな懐中時計をだしてみることもあり、また時には店へ入りこんで、大きな皮手袋をはめた手の上に十円|紙幣《さつ》などを乗せて塩を買ったり酢を買ったりする。そういうところは、けっして浮浪者ではないように見えた。
「そういえば、あの年寄りの浮浪者は、いつだか、木見さんのお邸《やしき》のまわりをうろついていたわね」
 塀のかげで、三人のお手伝いがこの話をしている。
「そうよ。裏手へまわって、あの空地《あきち》のあたりから、雪子さんの研究室の方を、のびあがって見ていたわ」
「怪しい浮浪者だわね。そうそうあの人はよくあの裏手の空地にある大きな銀杏《いちょう》の樹の上にのぼって昼寝していることがあったわよ。あたし、それを見て、きゃっといって飛んで帰ったことがあるわ」
「いよいよ怪しいわね。あの浮浪者、どこへいってしまったんでしょうか。雪子さんの事件以来、二度と姿を見かけないわね」
「どこへいってしまったんでしょう。まさか雪子さんをつれて逃げたんじゃないでしょうね」
「まさか、あんな年寄りに」
「でも、分らないわよ。変に気味のわるい人なんですものね」
「ひょっとしたら、あの浮浪者、そのへんにかくれているんじゃない」
「いやあ、そ、そんなことをいっておどかしては……」
 こんなふうな会話が、附近一帯でさかんにとりかわされた。誰の考えも、あの気味のわるい高等浮浪者(と町の或る人はうまい名をつけた)が少くとも雪子がきえた頃以来、姿を見せないことに不審の根拠を置いていた。
 道夫少年も、この噂《うわさ》は耳にしていた。ひょっとしたら、自分に疑いがかかることを恐れるか何かしてそしてその浮浪者が、昼間だけは姿をかくしているのではないか、そして夜中には近所をうろついているのではないかと思った。それで或る夜、道夫は時計が十二時をうつと、そっと雨戸をあけて外へでた。家のまわりを見まわるためだった。
 
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