であるのか、妾には全く見当がつかないことである。妾は全く身に覚えがないのに、このように姙娠してしまったのである。乳首は黝《くろ》ずみ、下腹部は歴然と膨らみ、この節《せつ》ではもう胎動をさえ感ずるようになった。婦人科医の診断もうけたが紛れもなく姙娠しているのだった。――相手もないのに身ごもるなどという不思議なことが、今の世にあってよいものであろうか。
 妾は早く貞雄に会って、このことについて教えをうけたいと思う。彼のような卓越した学者ならねばこの神秘の謎は解けないであろう。日を繰ってみると、妾は彼が身体の健全を保証していってくれたその直後に受胎したことになるのである。といって彼は決してその胎児の父ではないと思う。なぜなら貞雄は非常に潔癖で妾の家に一泊することすら断ったほどであり、もちろん妾は一度たりとも彼を相手にするようなことはなかった。いや貞雄ばかりのことでない。その外の男という男についても同じことが云える。妾は絶対に誓う。妾は男を相手にして、懐姙の原因をつくるような行いをしたことは一度もないのだ。しかし姙娠していることは、どこまでも厳然たる事実なのであった!
 妾も驚いているけれど、ひょっとするともっと驚いている人がありはしないかと思う。中でも女探偵の速水女史と、妾の妹の静枝とがはからずもそれを発見したときの驚きといったらなかった。
「まア驚いてしまいますわねえ。奥さまはどうして姙娠なすったんですの。相手は何処の誰でございますの?」
 女史は横目で妾のお臍《へそ》のあたりを睨みながら、あたり憚らず驚きの声を放った。
「まアお姉さま、驚かせるわネ。でもあたくしは存知《ぞんじ》ていますわ。あたくし達が伊豆へ行っている間にお作り遊ばしたんでしょう」
 静枝も驚きの目を瞠《みは》ったが、これは嬉しそうな驚きに見えた。しかし速水女史の方はそれ以来ニコリとも笑わなくなってしまった。こうなっては、妾の立場というものがいよいよなくなってしまったのだった。
 それだけではなかった。それからというものは女史と静枝とは、暇さえあれば額を合わせて何事かブツブツと口論しあった。それを耳にするにつけ、妾はたまらなく不愉快になっていった。
 ところで妾の待ちに待ったる貞雄が、約束した五ヶ月目にはとうとう姿を見せず、遂に七ヶ月目となってまだ肌寒く雪さえ戸外にチラチラしている三月になってやっと妾の家の玄関に姿を現した。
「貞雄さんが来たって?」
 キヨからその知らせを聞いて、すぐ飛びだしかけたものの、もう七ヶ月目の腹を抱えた妾のことである。姙娠のことは手紙で知らせはしてあったものの、この醜態を自ら見せにゆくほどの勇気がなかった。
「ほう、随分見事な腹になったネ」
 と貞雄は真面目な顔をして入ってきた。彼がそんなに取すましていなかったら、妾はいきなり怒鳴りつけたかもしれない。
「貞雄さん、一体これはどうして下さるの」
 と、妾は思う仔細があって、つっかかって行った。
「いや、どうにでもするよ」
 と貞雄はさりげなく答えながら、
「今度は君のためにいろいろと大きな土産を持って来たよ。どこか静かなところへ行って、ゆっくり話したいネ」
 といって、例の静かな瞳をジッと妾の顔に据えた。妾にはそれ以上つっかかってゆく勇気を持ち合わさなかった。
 彼はその日一日をわが家でブラブラしていたが、妾が何を云っても碌《ろく》な返事をしなかった。その代り速水女史に呼ばれると、イソイソと彼女の後についていって、長い間部屋から出て来なかったりした。彼等はわざと注意をしているらしく二人の声は全く洩れてこなかった。
 その翌日になると、貞雄は妾を伴って外へ出た。そして連れこんだのは、市内の某病院だった。彼はそこで顔の利く方と見えてズンズン通っていった。そして妾を「レントゲン室」と表札の懸っている部屋へ入れて、三十分間あまり、ジイジイとレントゲン線を発生させて、妾の腹部を覗いたり、写真を撮ったりした。その間、彼はまるで人が違ったように無口だった。
 それが済むと、彼は始めて微笑を浮べながら、妾を労《ねぎ》らった。それから再び外へ出て不忍池《しのばずのいけ》を真下に見下ろす、さる静かな料亭の座敷へ連れこんだのだった。いよいよ貞雄は妾に重大なことを云おうとするに違いなかった。妾は並べられたお料理なども全く目に入らないほどの緊張を覚えたのだった。
「珠枝さん――」
 と貞雄は静かに呼びかけた。
「貴女は僕に聞きたい色々のことがらを持っているだろうネ。イヤ、暫く黙っていてくれたまえ。僕が適当な順序を考えて一応話をするからどうか気を鎮めてよく聞いてくれ給え。――まず真一君を殺した犯人のことだが、それは今日、本人の自白によってハッキリ分ったよ」
「まア、誰なのでしょう」
 と妾は思わず乗りだした。
「そう興奮しちゃいけない。――その犯人というのは、やはり速水女史だった。静枝さんは無関係だ」
「ああ、速水さんが真ちゃんを殺したの」
「そうなのだ。僕は或る交換条件を提出し、その代償として聞いたんだ。で、その条件というのは、君が腹に持っている胎児を流産させることなのだ。イヤ驚いてはいけない。一体、速水女史は事実君の妹でもなんでもない蛇使いのお八重という女を籠絡《ろうらく》して、静枝と名乗らせ、この家へ乗り込ませた。それはお八重がたまたま君によく似ていたので使ったまでで、そうすることによって君の財産をお八重に継がせ、そこで速水女史は軍師の恩をふきかけて結局莫大な財産を自由にしようという企《たくら》みをしたのだ。その計画はたいへん巧く行った。これなら大丈夫と思っていたところ、意外にも意外、君が姙娠してしまったので、速水は大狼狽《だいろうばい》を始めたのだ。なぜなら、君に子供が生れりゃ、一切の財産はその子供が継ぐに決っているからネ。そこでこれはたまらないと悄気《しょげ》ているところへ、僕が悪党らしく流産手術を持ちだしたものだからすっかり安心して、真一君を亜砒酸《あひさん》で殺したことを自白に及んだというわけさ。もちろん想像していたとおり、この家に潜伏していた女史は、酔っている真一が水を呑むのを見越して、水瓶の中にその毒薬を入れて置いたのだ。女史が事件後、真先《まっさき》にその水を明けに行ったのも肯《うなず》かれるネ」
 妾はただ呆れて聞いているより外《ほか》なかった。
「ところで真一君だが、あれは紛れもなく君の同胞《はらから》だ。『三人の双生児』の説明は、後で詳しく云うけれど、とにかく亡くなった君たちの母親は、真一と君とを生んだのに違いない。これは徳島に隠棲《いんせい》しているその時の産婆の平井お梅というのを探しだして聞きだしたのだ。書いて貰ってきたものもあるから、後でゆっくり見るがいい。ただし、君と真一とは、あのよく似ていて瓜二つという一卵性双生児ではなくて、すこし顔の違ってくる二卵性双生児であったことは、君にもよく分るだろう。しかしまだその上に、恐ろしい因縁話があるのだ」
 と云って貞雄は茶碗からゴクリと番茶を飲んだ。
「君と真一君が、双生児にしては余り似ていないことを不思議に思うだろうが、そこに重大な謎が横たわっているのだ。このところをよく分って貰いたいが、実は君たちは双生児であって、その卵細胞は同じ母親のものながら、その精虫を供給した父親が違っていたのだ。いいかネ、分るだろうか。――つまり、ハッキリ云うと、真一君を生じた精虫は君の亡くなった父親のものであり、それから君を生じた精虫は、実に僕の父親である赤沢常造のものだったんだ。さ、そういうと不思議がるかも知れないが、君はこんなことを知っているだろう。膣内の精虫の多くはその日のうちに死んでしまうけれど、中には二週間たっても生存しているものもあるということを。だからここに二卵性の双生児が出来たとしても、それが同一日に発射された精虫によるとは限らないのだ。そういえばもう分っただろうが、僕の父の赤沢常造の精虫が発射されたその数日か十数日か後に、真一君の父親が船から下りて来てまた精虫を発射する。このとき偶然にも二人の精虫が、君の母親の二つの卵に取りついてこの二卵性双生児が出来上ったのだ。それで合点がゆくことと思うが、君と僕とが、戸籍の上では赤の他人でありながら、実は二人は父親を同じくする異母兄妹なのだ。だから君と僕とが、兄妹のように似ていることが肯かれるだろう」
 妾はあまりの奇怪なる話に、気が遠くなるほど駭《おどろ》いた。話は分るけれど、そんな不思議なことが吾が身の上に在るとは、なんという呪わしいことだろう。それにどんなにか慕《した》わしく思っていた貞雄が、血を別けた兄妹であったとは、なんという悲しいことだろう。
「君の愕くのは尤《もっと》もだが、まだまだ愕くべきことが控えているのだよ。――ところでいよいよ『三人の双生児』の謎だが、これは解いてみると案外くだらないものさ。こんなことを日記にかきつけたのは真一の父親だった。彼は船乗りだった。船乗りの語彙でもって『三人の双生児』といったことをまず念頭に置かなくちゃいけない。実は君の方は普通の健全な人間だったけれど、真一君の方はそうでなかった。彼は畸形児だったのだ。手も足も胴体も一人前だったが、気の毒なことに首が二つあった。つまり両頭の人間だったのだ。そういえば思い当るだろうが、真一君の肩にあるあのいやらしい瘢痕《きず》のところには、昔もう一つの首がついていたのだ。その首にはチャンと名前がついていた。西村真二というのだ。いくら子供が可愛くても、この両頭の畸形児を人に見せるわけにはゆかない。そこであの座敷牢があるのだ。君は女の児だと思っていたろうが、子供のときには男女の区別はハッキリしない。殊に終日寝かされて何の変った楽しみもない真一真二の幼童が、たまたま君の髪に結んだ赤いカンカンを見て、あたい達にもつけてよオとせがんでも無理のないことではないか。そして二つの首を見せて駭かすことのないように、母親がいろいろ気を配ったことも無理ならぬことだ。その後、真二は顔に悪性の腫物《はれもの》が出来たので遂に大学で未曾有《みぞう》の難手術をやり、とうとう切ってしまった。そうしないと真一までが死んでしまうおそれがあったからだ。真一君が流浪の旅にのぼるようになったことなどは説明するまでもあるまい。僕は君を大学へ連れていって、アルコール漬になっている真二君の首を見せたいと思うよ。――まあそんなわけだから、君たちが生れたときに、お父さんが『三人の双生児』と呼んだのも根拠のあることだ。身体から見れば双生児であり、首の方は三つあったんだからネ」
 ああ、なんという恐ろしい話だろう。これほど怪奇を極めた話が、この世に二つとあろうか。妾は舌を噛み切って死にたいような衝動に駈られた。といって、舌を噛み切って死ねば、妾の腹にある胎児は、暗《やみ》から暗へ葬られるのだと気がつくと、妾はハッと正気に返った。そしてそこで妾は吾が子のまだ知らぬ父親のことが急に知りたくなって、自らを制することができなくなった!
「妾の腹の子の父親のことを教えて下さいな。どうぞ後生《ごしょう》ですから……」
 と叫んだ。
「ではそれを教えてあげようが、これから大学まで歩いてゆく道々話すことにしよう」
 最早《もはや》妾たちは折角の料理に箸《はし》をつける気もなくなって、そのまま外に出た。池《いけ》の端《はた》を本郷《ほんごう》に抜ける静かなゆるい坂道を貞雄に助けられながらゆっくりゆっくり歩を搬《はこ》んでゆく――が、妾の胸の中は感情が戦場のように激しく渦を巻いていた。
「君の胎《はら》の子の父親はねエ」
 と貞雄は耳許で囁いた。
「――駭いてはいけない、この僕なんだよ」
「まア、貴方ですって、――」
 妾はそれを聞くとカッとして、思わず貞雄をドンと突き飛ばした。
「ああ悪魔! 恐ろしい悪魔!」
 と妾は喚《わめ》きつづけた。
「貴方と妾とは血肉を分けた兄妹じゃありませんか。それだのにこんな罪な子供を姙《はら》ませるなんて……ペッペッ」
 と、妾は烈しく地面に唾を吐いた
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