分不審な点があるネ。たとえば速水女史が水壜の水を早速明けに行ったというのも妙なことじゃないかネ。どうだい珠枝さん。その壜とかコップとか、或いは水の零《こぼ》れを拭《ぬぐ》った雑巾《ぞうきん》とかいうものは残っていないかしら」
貞雄が抱いている疑惑の点を、妾はすぐに察することが出来た。彼は真一の死を中毒死だと思っているのだ。それは貞雄があの部屋の中で口にしたと思われるその水壜の中に一切の秘密があると云うらしい。
「そんなものは、その場で始末してしまったから、有る筈はなくてよ」と云ったものの、よく考えてみると、妾はあの夜離座敷を大急ぎで片づけたことを思い出した。あのとき部屋の中の品物を仕舞ったトランク類はその儘《まま》土蔵の奥深く隠してしまって、その後は一度も開いたことがないのであったが、ひょっとするとそのトランクの中に、なにか当時の隠れた事実を証明するようなものが入っていないとも云えないと思う。そう考えた妾は、恥かしいけれど一切のことを貞雄の前にさらけだした。
「ああそんなものがあるのなら、一度出して検べてみたらどうだネ」
流石《さすが》に医者である彼は、変態的な妾の生活など嗤《わら》う様子もなく、真面目に聞いて呉れたのだった。だから妾はすぐさまそのトランクを開いてみる決心をして、貞雄を案内して黴臭《かびくさ》い土蔵の中に入っていったのであった。
9
貞雄の云ったことは正に図星《ずぼし》だった。
妾たちはトランクを一つ一つ開いてゆくうちに、その一つの中に、あの夜真一が水を飲むに使った大きいコップを発見した。それは狼狽《ろうばい》のあまり妾が他の品物と一緒に抛りこんでしまったものに違いなかった。
貞雄は、そのコップを取り上げて、明りの方に透かしてみたり、ちょっと臭を嗅いでみたりしていたが、やがて妾の方を向き、
「珠枝さん、ハッキリは分らないが、どうやらこれは砒素《ひそ》が入っていたような形跡がある。無水亜砒酸《むすいあひさん》に或る処理を施すと、まず水のようなものに溶けた形になるが、こいつは猛毒をもっている。普通なら飲もうとしても気がつく筈だが、当人が酒に酔っているかなにかすれば、気がつかないで飲んでしまうだろう。砒素は簡単に検出できるから、あとで検べてみよう。しかしまず間違いないと思うネ」
「まア、水瓶の中に砒素が入っていたの、まア恐ろしいこと。一体誰がそんなものを入れたのでしょう」
「いや、今に僕が分らせてみるよ」
妾はホッと息をついた。貞雄の来てくれたお蔭で、妾の疑問としていたところはドンドン氷解してゆくのであったから、感謝をせずにいられなかった。どうか今夜はぜひ泊ってくれといったけれど、貞雄は中々承知しなかった。
「随分貴方は頑固なのネ。貴方と妾とは従兄妹《いとこ》じゃありませんか。泊っていったって何ともないじゃないの」
「ああ。――」
と貞雄はちょっと眉をひそめたが、
「貴女は知らないらしいネ。貴女の西村家と、僕の赤沢家とは、赤の他人なんだよ」
「あら、――でも赤沢の伯父さんと呼んでいたことを覚えているわ」
「ははア、そんなこと、意味ないよ。幼いころは、だれを見ても『おじさん』と呼ぶ。僕は知っているけれど、両家は他人同志だった」
「まア、そうなの――」
すると妾にとって、赤沢は赤の他人なのだ。今まで馴れ馴れしくしたことが悔いられたけれど、その代り他人であればあるだけ、妾は俄かに胸のワクワクするのを覚えた。
「医者として僕は珠枝さんに云って置きたいけれどネ」と貞雄は一向頓着なしに話しかけた。「君は同胞《はらから》を探すことに夢中になっているようだが、たといそれを探し当てても、君はサッパリしないに決っているよ」
「アラなぜ、そうなの」
妾は貞雄が何を云いだすのやら、すこし驚かされた。
「君は、そうした要求の背後に、いかなる本尊《ほんぞん》さまがあるのかを知らねば駄目だ」
「本尊さまって?」
「端的《たんてき》に云えば、君は母性慾に燃えているのだ。君の自分の血を分けた子孫を残したがっているのだということに気がつかないかネ。同胞探しは、その根本的要求が別の形になって現れたに過ぎない。本当のところは、君は子供を生みたいのだ」
「そうかも知れないわ」と妾は云った。「でも妾は男性とそういう原因を作ることを好まないのよ。つまりそういう交渉を極端に億劫《おっくう》がる性質なの。そういう交渉なしに子供が出来るんだったらいいけれども、そうもゆかないでしょう。それに妾は一度結婚生活を送って分ったことだけれど、妾には子供が出来る見込なんかありゃしないわ」
「そんなこともなかろうけれど、結局君のあまりに変態的な生活が、そうした能力を奪ってしまったのかもしれないネ。忍耐づよい夫婦生活が、おそらく自然に君の能力を取り返すだろうと思うが、夫婦生活そのものを極端に忌避《きひ》するようでは困ったものだネ」
といって貞雄は、軽い吐息《といき》をついた。妾自身でもこれは困ったものだと思っているのである。変態道に陥ったばかりに、妾は正しい勤めをさえ極端に不潔に思うのだった。
「しかし本当は、君自身子供が欲しいと思うのだネ」
と暫くして貞雄は尋ねた。
「いく度云っても同じことよ。でも不能者に、子供の出来る筈はないわ。その上にどうも妾は生れつき大きな欠陥があるような気がしてしようがないのよ」
貞雄は気の毒そうな顔つきで、妾をしげしげと見ていた。そのとき妾は、いままで忘れていた大事なことを思い出した。それはいつかも考えたことであるが、ひょっとしたら妾の身体には自分で観察することの出来ない箇所に異常な徴候が印せられているのではあるまいか。それを専門的知識をもって十分に診察してくれる適当な医師としては恐らく目の前に居る此の貞雄の外にないということを感じた。それで妾の胸のうちには、それを確めて貰いたい嵐のような願望が捲き起ったのである。
「ねえ、貞雄さん、妾、医師である貴方にとても重大なお願いがあるのよ。――」
「医師である僕に、どんな願いがあるというのかネ」
妾はそこで思いきって全身に亘《わた》る診断のことを頼んでみた。一つには異状又は異状の痕跡の有る無しのこと、もう一つには妾の懐胎の機能が健全であるか不健全であるかということ、この二つについて早速検べてくれるように頼んだのであった。
「よろしい。そんなことは訳はないことだ。では明日道具を揃えて来て、やってあげよう」
といった。妾としては非常に重大なことを、彼があまりに手軽に引受けてくれたことに対して意外の感にうたれたけれど、医師にしてはそんなことは格別なんのことでもないのであろうと思った。
さて其の夜、貞雄はわが家に一泊を承知しないでホテルに引上げて行った。――そしてその翌朝になると、医療器械のギッシリ詰まっているらしい大きな鞄を下げ、まるで事務員かなにかのように正確にやって来た。
「さあ、こういうことは、午前にやるのがいいのだから、さあ早く支度をして――」
と云って妾を促した。妾はキヨを用事にかこつけて外出させてしまおうと思ったので、それを命じていると、奥から貞雄がノコノコ出て来て云った。
「キヨさんを使いにやるのなら、アレが済んでからにしてはどうかネ」
この貞雄の言葉には、妾はすっかり興《きょう》を醒《さ》ましてしまった。キヨを外に出してしまえば、どんなに落着いて妾の楽しみを味うことが出来るだろうと予期していたのが、すっかり駄目になった。「キヨが居ては、妾|厭《いや》だわ。――」
と妾は、ちょっと拗《す》ねてみせた。
「それはいけない。こういうことは、たとえ医師でも誤解をうけやすいことだ。どうしても誰かに立ち会って貰うのでなくては、僕はやらないよ」
貞雄の頑迷な潔癖さには、妾はつくづく呆れてしまった。また一面に於ては、それだけ彼の人物が気に入った。もう仕方ないので、キヨを立ち合わせることに同意した。
貞雄は、妾の居間を診察室に決め、その隣りの納戸を準備室に決めた。準備室には、何に使うのだか訳の分らないいろいろな器械や器具を並べたて、見たところたいへん大袈裟《おおげさ》でかつ厳《おごそ》かだった。
こうして午前十時から、いよいよキヨ立ち会いのもとに綿密な診察が始まったが、それは約一時間に亘った。妾はあらゆる場所をあらゆる角度から診察され、その上にまるで手術を受けるのかと思うような器械を当てられたり、いろいろな場所にさまざまの注射をしたり、幾度も血液を採取せられたりした。妾はキヨの立ち会っていることなど直ぐ気にならなくなった。どうやら診察が一と通り終ったらしいと思っていると貞雄は静かに妾の傍へよって来て、
「これで診察は終ったよ。君は母性欲が今日は顕著な曝露症《ばくろしょう》の形で現れていたと思う」と笑いもせず云ってのけた。「精《くわ》しいことは、あとで報告するけれど、見たところ君の身体にはさしたる重大な異状を発見しない。子供を育てる機能も充分に発達している。君が考えさえ直すなら、普通の人より以上に健康な体躯の持ち主だということが出来る」
そんなことは云われなくても分っているようなものだった。それよりも、もっと訊《き》き正したいことがあった。
「それよか、妾の身体に、何か変ったところか、瘢痕《きず》のようなものは見付からなくて」
「気の毒だけれど、君を悦ばせるような異状は何一つ発見できなかったよ。――」
それを聴いて妾はホッと溜息をついた。それならばいい。妾は心配したようなシャム姉妹的な存在でもないのだった。妾は一時に身が軽くなったような気がした。それで起きて何かお美味《いし》いものでも喰べようと思って、蒲団から身体を起しかけた。ところがそれを見た貞雄は、駭《おどろ》いてそれを留めた。
「あッ動いちゃいけない。――」
「アラどうして!」
「もう一時間ばかり、そのまま絶対安静にしているんだよ。いろいろな注射などをしたものだから、その反応が恐い。生命が惜しけりゃ、僕の云うことを聞いて、もう一時間ほど静かに横臥《おうが》しているのだ」
そういって貞雄は、妾の肩にソッと毛布を掛けてくれた。――妾は羊のように温和《おとな》しくなった。
貞雄が当地を出発したのは、その翌日のことだった。いずれ冬の休暇ごろには、用があるのでまた当地へ来るから、そのとき是非立寄ると云った。そして例の「三人の双生児」に関する問題も故郷の方をもっと探してみて、面白い発見があれば必ず知らせるということだった。
妾は彼の再訪を幾度も懇願した上、名残惜しくも貞雄を東京湾の埠頭まで送ったのであった。
10[#「10」は縦中横]
五ヶ月という日数は、妾にとってあまり永すぎた。――しかしとうとう、その五ヶ月目がやって来たのだった。
五ヶ月!
その間、妾は貞雄をどんなに待ち佗《わ》びたことだろう。堪えかねた妾は幾度も、南八丈島の彼の許へ手紙を出したけれど、それは梨《なし》の礫《つぶて》同様で、返答は一つもなかった。
その五ヶ月の間を、妾はどんなに驚き、焦《あ》せり悶《もだ》えたかしれない。前には三人の双生児のことで思い悩んだ妾だったけれど、この度はそれどころではなかった。三人の双生児などは、もうどうでもよかった。ましてや真一の死などは何のことでもなかった。彼を殺した犯人が女探偵の速水女史であっても、また静枝が妾の本当の妹でなくても、それはどうでもよいことだった。事実妾は平気で、かの二人の女を同居させていた。二人は全く家族のように振舞っていたのである。ときには、誰がこの家の主人だか分らぬようなことさえあった。その五ヶ月を、妾は一体何事について驚き焦り悶えていたのだろうか。
姙娠!
妾は目下《もっか》姙娠五ヶ月なのであった。
そういうと、きっと誰方《どなた》でもこの余り意外な出来ごとのために、目を丸くなさることだろうと思うが、妾の懐姙《かいにん》は最早疑う余地のない厳然《げんぜん》たる事実なのである。
さらに驚くことは、この懐姙した胎児について、誰がその父親
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