お、お前は小さかったから、よく知らんのじゃなア。イヤ知らなけりゃ知らんでいる方がお前のためじゃ。そんなものは聞かんがいい、聞かんがいい」
 と云って、父は妾が何といって頼んでも、故郷の地名を教えなかった。だから妾は、幼い日の故郷の印象を脳裏《のうり》にかすかに刻んでいるだけで、あの夢幻的な舞台がこの日本国中のどこにあるのやら知らないのであった。
 いまにして思えば、あのとき何とかして故郷の方角でも父から訊《き》きだして置くのであったと、残念でたまらない。なぜなら、その後父は不図《ふと》心変りがして船を下り、妾を連れて諸所|贅沢《ぜいたく》な流浪を始めたが、妾が十歳の秋に、この東京に滞在していたとき、とうとう卒中のために瞬間にコロリと死んでしまった。そしてとうとう妾は永久に故郷の所在を父の口から聞く術《すべ》を失ったのであった。それから後ずっとこの方、故郷はお伽噺《とぎばなし》の画の一頁のように、現実の感じから遠く距《へだた》ってしまったような気がする。
 幸いに父が持って歩いていたトランクの中に、相当多額の遺産を残して置いてくれた。それは主として宝石と黄金製品とであったが、父が海外で求
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