た。
「ああ、あの紳士の方のことでございますか」
 とキヨは俄かに狼狽《ろうばい》の色を示しながら、
「まあ奥さま、あたくしどういたしましょう。真一さまのことで大騒ぎとなりましたので、忘れていましたが、実はあの夜あれからもう一度、あの方にお逢いしたのでございます」
 そこで訊《たず》ねてみると、妾が寝室へ引取ってからものの五分と経たないうちに、彼の紳士はまた玄関に入って来たが今夜は逢わないという奥さまのお云付《いいつ》けを伝えるとそのまま帰った。しかし自分の名前を名乗りもせず、九月の始めになると、また当地を通るから、そのときに気が向いたら寄ろうなどと云ったそうだ。なんという不可解な紳士だろう。話をきくと、妾に好意を持っているようでいて、よく考えると行動の上に於て、この位怪しい人物はないと思われる。黙って殺人をして引取っていったとすると、これは実に大胆不敵な兇漢であるといわなければならない。妾を吃驚《びっくり》させるなんて――殺人者として妾の目の前に立って吃驚させるぞという悪党らしい遊戯かも知れない。
 ただ腑に落ちないのは、妾にこの上なくよく似ているということである。静枝がよく似ていると自分でも思っているがキヨはそれよりももっとよく似ているという。未知の同胞《はらから》を探していると公表したけれど、こう後から後へと妾によく似た人物が出て来たのでは、気味がわるくて仕方がない。
 妾は、その怪紳士が寄るかもしれないと云い残して置いた九月を迎えるのが、急に恐ろしく感ぜられてきた。


     7


 八月も末になって、暑さが大分|和《やわ》らいで来た。
 或る日妾は、なんとなく家にいるのが堪えられなくなってブラリと邸を出た。久し振りの散歩につい興に乗って、思わずも歩を搬びすぎ、いつの間にか隣村の鎮守《ちんじゅ》の杜《もり》の傍に出た。そしてそのとき杜蔭に思いがけなくも、曲馬団の小屋が掛っているのを見て、たいへん奇異の感にうたれたが、近づいてみると、古ぼけた蝦茶色《えびちゃいろ》の緞帳《どんちょう》に金文字で「銀平曲馬団」と銘がうってあったのには、夢かとばかりに驚いた。銀平曲馬団といえば、これは亡き真一が一座していたという曲馬団と同じ名であった。
 そこで妾は、小屋の前へ廻って中を覗いてみたが、生憎《あいにく》一座は休演していることが分った。横手の草地の上には顔色のよく
前へ 次へ
全48ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング