三角形の恐怖
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)中野《なかの》の先の
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一寸|残忍性《ざんにんせい》を帯びた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)例の細田弓之助[#「細田弓之助」に傍点]という人
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それじゃ今日は例の話をいよいよすることにしますかな。罪ほろぼしにもなりますからね。そうです。罪ほろぼしです。私の若い時のね。いや艶っぽいことなんか身に覚えはありませんから、アテられるなんて事はありませんよ。それは罪は罪だと思いますよ、今でもね。そうです、もう二十年も昔になりましょうか。先帝陛下が御崩御になって中野《なかの》の先の浅川《あさかわ》に御陵《ごりょう》が出来た頃の話なんですよ。
その当時私はW大学へ通っていました。随分若こうござんしたよ。今見たいにこんなにデクデク肥っちゃいませんが、中肉中背という奴で頬っぺたも赤くて、桜の蕾《つぼみ》かなんぞのように少しふくらんでいましたよ。亡《な》くなった姉のお友達に電車の中なぞで行き合うと、
「宗夫《むねお》さんはいつ見てもコドモさんですわねえ」
と懐《なつか》しがられたものですよ。やあこんな風なことは言わない御約束でしたね。これは失敬。
其のころ私の家は東中野にありました。中野の辺を省線電車で通りますと、淀橋の瓦斯《ガス》タンクより右の方へ三十度ばかり傾《かたむ》いたところにこんもりとした森が見えますが、あの森の直《す》ぐ下でした。御承知の通り関東一帯に特有な大きい杉の森でして、近所では他のどこの場所よりも高い梢《こずえ》を持っていまして、遠方から見ると天狗《てんぐ》の巣でもありやしないかと思われる位でした。私の家は、その塔《とう》の森と呼ばれる真暗な森と、玉川上水のあとである一筋の小川を距《へだ》てて向い合っていました。どっちかと言うと一寸陰気な、そして何となく坊主頭《ぼうずあたま》に寒い風が当るともいったような感じのするところでした。
ですから学校に居る間は大学生の中にもこんなふざけ方をして喜んでいる無邪気な奴が居るかと思われるように陽気《ようき》に振舞っていましたが学校がすんでから電車を東中野駅で捨てて、それから家まで五六丁ほどの道のりを歩いて行くうちにいつとはなく考え込んでしまうのです。帰って来て小川の縁《ふち》に立ちかぶさるように拡《ひろが》った塔の森を仰ぐと今までの快活が砂地に潮がひくかのようにすっと消えてしまって、眼の下に急に黒い隈《くま》が出来たような気になるのでした。
そうなるといつまでも黙りむっつりとして其の日教わって来た数学の定理の証明を疑ってみたり、其の頃流行の犯罪心理学の書物に読み耽《ふけ》ったり、啄木ばりの短歌を作ったりしていました。
そんな調子の生活の中から私は遂に一つのトピックスをみつけ出したものです。それは例の犯罪心理学の書物と、自分の勉強している数学との両方から偶然に醗酵して来たものであったのです。私の考えでは人間が脅迫《きょうはく》の観念に襲われる場合に其の対象となるものは、平常其の人間がついうっかり忘れていたとか、気をつけていなかったものに偶然注意が向けられた結果、急に其のものに対する注意が鈍くなって遂に一つの脅迫観念が萌《も》え上って行くのであって、其の対象となるものが単純で、且つ至るところに存在しているもの程、脅迫観念を加速度的に生長せしめるのではないかと思ったのです。いや思ったどころか次の瞬間には必ずそうに違いないと考えました。そうなるとその儘《まま》では抛《ほう》っておけないような気がして、早速これを実験して事実の上にも明かな結果を出してみたくなりました。
私はそれから色々と「単純で、至るところに存在するもの」であって、人間が「うっかり忘れているもの」をあれやこれやと考えて見ました。考えてゆくうちに私は一つの面白い目標にカチリとつき当りました。
「三角形! そうだ」
三角形は三つの線分で作りあげることの出来る最も簡単な空間であります。私たちのように数学を、しょっちゅう勉強しているものには三角形なんて忘れようとしたって忘れることの出来ないものですけれど、数学に縁の遠い人なら此の最も簡単な空間であるところの三角形をついうっかり忘れているかも知れないと思いました。それに三角形の現わす奇異な感情は、円とか五角形とかのあらわすところとは余程《よほど》趣きを異にしていて、如何にも我が意を得たる絶好の対象物だと思ったのでした。
私は小さい頃から南京豆《なんきんまめ》の入っているあの三角形の袋が好きでした。駄菓子屋《だがしや》の店先などに丸い笊《ざる》の中に打ち重ねて盛りあげられた南京豆の三角形の紙袋を見ると買わずには通り過ぎることが出来ない位でした。あの下の方へ細っそりとした鋭角《えいかく》はノウノウとした気分でいる子供の食慾を引きつけずには置かないのでした。鋭角と子供の食慾との間には必ずや或る真理が横《よこた》わっていると私は思っていたのです。こんな日頃の感じが今の場合のヒントを与えて呉《く》れたのかも知れません。兎《と》に角《かく》私は「三角形の恐怖」といったようなものを或る人間に抱かせてみようと決心したのです。
そうなると此度は試験台になる人間を見付けなければなりません。それからと言うものは学校の行きかえりに「三角形の恐怖」を容易にひきおこしそうな人物を一生懸命で物色したものです。十日ほどの辛抱《しんぼう》ののち私は頃合いの犠牲者を到頭《とうとう》見付けることが出来ました。これが例の細田弓之助[#「細田弓之助」に傍点]という人物です。この細田氏の名前が弓之助であることや、其の時三十三歳であったことは、後に例の新聞記事が出た時始めて知ったような訳なのでした。三十三歳とは見えぬ位、細田氏は私の拝見した当時からふけ込んでいました。背は高くて後を向くと肩が寒そうにいかっていました。別に寒い日でもないのに青い顔に黒いマスクを懸《か》けて、私と同じように中野駅におずおずと落付かぬ様子で降り立ったのを見付けたのが、恰度《ちょうど》例のことを念じてから十日目でした。
私は細田氏が東中野駅の附近に家を持っていて呉れればよいと思いました。其の人が特に其の日だけたまたま此の駅に降りたのであったら、其の住居の方へ追いかけて見てもあまり遠いところなら私の実験を行う上に於《おい》ていろいろと不便が感ぜられるに違いありませんでした。が幸にも細田氏はあの駅を下りて私の方とは反対の側に行ったところなんですけれども駅から二丁ばかりのところにあって可成《かな》り大きな家を構えて居りました。これは段々わかった事ですが、細田氏は当主《とうしゅ》の次男であって、当主は数年前からここに居を構えていられたのでした。
私はまず此の実験を行うに当って出来るだけ細田氏の行動を観察して其の性格を理解したいと思いました。又其の職業も私のように理科や工科の人であったり、或いは画家であっても困ると思って細田氏の行く先々にも度々ついて行きましたが、都合のよい事に細田氏は無職で毎日何をするという事もなくブラブラしている身分で、たまに出掛ける先は病院であったり、買物であったりして、友人も案外少いことが判りました。
大体そんなことが判ると私はいよいよこの犠牲者に対して実験を行うことに取りかかりました。恰度学年試験が漸く済んで一寸一ヶ月の休暇が私に与えられていました。私の探偵したところによると、其頃細田氏は毎朝神田の白十字会病院まで注射をうけに行くということが判っていましたので、私は躊躇《ちゅうちょ》するところなく事を始めました。
最初の日は私はわざわざ下町で買い求めて来た正三角形の皮製蟇口《かわせいがまぐち》を犠牲にすることにしました。この蟇口を細田氏の歩む道路上に捨てて置いて拾わせようという考えです。私は其の日予定の時間に三角形の蟇口を懐中に忍ばせて細田氏の邸の方へ出向きました。細田氏の宏壮な構《かまえ》の前には広い空地《あきち》があって其の中を一本の奇麗な道が三十間程続いてその向うに小ぢんまりとした借家《しゃくや》が両側に立ち並んでいました。駅へ出るには、細田氏はどうしてもこの道を歩かねばなりません。
神経質な細田氏が病院へ出かける時間は大体午前九時三十分に決っていて、必ず其の時間には紋切型に氏の長身が太い御影石の門に現われるのでした。私は細田氏に拾われることを信じ乍《なが》らも万一他の御用聞きなぞに拾われることをも覚悟の中に入れて定刻二分前に門前十歩ほどの路上に其の三角形蟇口を落しておきました。そして直ぐさま身を飜《ひるが》えすようにして門前につづく広い空地の片隅に佇《たたず》んで細田氏の姿の現われるのを今や遅しと待っていました。
果して間もなく細田氏は例の力なさそうな姿を門前にあらわすと、スタコラと白い路をすすみ出ましたが、どんな無神経ものの眼にでも気がつかずにいない赤い三角形の蟇口はやすやすと細田氏の注視の標《まと》となり、氏の桐《きり》の下駄は戛《かつ》と鳴って、三角形蟇口の前に止りました。直ぐ拾い上げるだろうと予想した事ははずれて細田氏はステッキでちょいちょいと其の蟇口をいじって見ましたが、突然顔をあげて辺りを見廻しました。勿論《もちろん》私の姿も目に入るに違いなかったので私はつと横の路次《ろじ》の方へ大急ぎで飛び込んでゆきました。私は細田氏が何か大声をあげて私を呼びはしないかと思いましたが、一向声もきこえず、いつ迄たっても元のように静かでした。
それから五分程過ぎたので私は路次から顔を出して窺《うかが》いますと、細田氏の姿はもうありませんでした。私はすっかり計画が当ったのに雀躍《こおど》りしながら、さりげなく蟇口を棄てたところに近付いてみますと、其の蟇口は側の溝《みぞ》の中に転って居ました。それは多分ステッキで上から押して見て何も入っていないと知るとステッキの尖《さき》でこの溝へ弾《はじ》き込んだものにちがいありませんでした。私はとも角も其の蟇口を拾い上げて逸早《いちはや》く其場を立ちのくと共に、細田氏の眼底に、この毒々しい赤い三角形が刻み込まれたことを信ぜずには居られませんでした。
斯《こ》うしておいて其の翌日は、細田氏に三角形の原質的な記憶を呼び起さしめるために同じような時間に出向いて、あれから少しはなれた道路の上に、小さいセルロイド製の三角定規《さんかくじょうぎ》を落して置きました。
細田氏は例の如く急ぎ足に出て来ましたが今日は少しも立ちどまりもせず、下駄で蹴とばしもせず、棄てられたセルロイド製の三角定規の側を過ぎて行ってしまいました。その三角定規が細田氏の眼にうつらなかったのだか、或いはそれが充分意識せられ、私の思いどおりに昨日の記憶を呼び起して不審な気持を抱《いだ》き乍らも何気なく立ち去ったのであるか、一向判りませんでした。
これでは折角《せっかく》の計画も駄目だと思ったので、翌日はもう少し薬を強くきかせることに決心いたしました。この為めに私は真黒な羅紗紙《らしゃがみ》を小さい乍らも鋭い角を持たせるように切りぬきまして、其の上に新聞紙から「呪」という字を苦心の末、やっと三つ見付けて来て、これをその三角の片隅に三つの文字が三角形をなすように貼りつけたものを作りました。これを懐にして出かけた私は大胆にも、細田氏の石の門のすぐ前にいかにも目につきやすく落しておきました。そのあとで例の路次からいまにも出て来るであろう細田氏の挙動《きょどう》を少しでも目から放さないようにしようと思いました。
この露骨な企《くわだ》ては到頭予期以上に成功したのです。細田氏は門のところへ、ツカツカと出て来るや否や、いきなり飛び上るように身を退いて、例の三角形の切抜きのある地上を見つめたではありませんか。私は一寸|残忍性《ざんにんせい》を帯びた微笑をせずには居られませんでした。細田氏は四辺《あたり》をキョロキョロと見廻しましたが
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