私宛に参りました。これを母がいぶかしそうに二階の私の部屋に持ちこんで来たときは、思わずハッ[#「ハッ」に傍点]としました。多分どこからかの脅迫状でもあろうと思いましたが、たった一人生き残った母親へ心配を懸けたくないと思ったので、それはそそっかしい親友A――の筆蹟にちがいないと話して安心をさせました。
母が階下へ降りてから、早速こわごわ封を切って見ますと、中には用箋が四五枚|綴《と》じた手紙が出て来ました。それは随分と乱暴な筆蹟で書きなぐってありましたが、文章の最後には差出人の名前がちゃんと出ているではありませんか。それに驚いたことは、この差出人は昨夜死んだ細田弓之助其の人なのです。
私は其の手紙をもう焼いてしまったので今日貴方にお見せするわけには行きませんが、大体こんな意味のことが書き綴《つづ》られていました。
[#ここから2字下げ]
宗夫君。
私の生命は今日に迫っている。それは私には良く判る。そして今を除いては私が君に呼びかける時も又とあるまい。
私は最近になって君が、昔私の捨てた恋人のたった一人の愛弟《あいてい》であるという事を知ることが出来たのだ。それを今まで知らなかった私は万事にどの位驚き続けたことであろうか。しかし今となっては何事も全て遅いのだ。
もはや御察《おさっ》しの通り私は八年ほど昔、君の姉さんである時子《ときこ》と恋に陥ちていたのだ。私は二十五で、時子は二十だった。二人の恋は偶然なところから結ばれて秘密裡につづけられたので私達の間のことは恐らく君の母君とても御存知あるまい。
私は二十五といっても、全くお坊っちゃんであったし、時子はどうかというと其の病気の所以《ゆえん》もあったのであろうか、年よりもずっと進んだ気持を持っていた。私は五つ下の彼女が私に振舞った年上らしい熱情を今でもはっきり思い出すことが出来る。
ここへ書くのも恥かしいことだが、無反省な若い心を持っていた私は不図《ふと》した事から時子の胸の病《やまい》を知って驚いた。それと同時に余りはげしすぎるように思われる彼女の熱情がたえられない程いやに思われて来て私は遂に彼女と別れる気になった。
忘れもしない今から八年前の今日のことだ。いつもはわざと住居から遠くはなれて秘密な恋を味い喜んだあの佃島《つくだじま》で私ははっきり切れ話を持ち出した。時子の慨《なげ》きがどんなであったか、それは想像に委せる。私は時子を砂の上につき仆《たお》して逃げたのである。其のとき、時子は発作《ほっさ》に襲われて激しく咳《せき》こみながら叫んだ言葉がある。それは「デルタ、デルタ」というのだ。其のさきは咳がはげしくなったのでどうしても言えなかったのだろう。私はそれでも逃げた。しかし彼女が別れのときに苦しい息の下から言わんとした意味はよく私にわかっていた。
デルタというのは君も知っている通り「三角洲[#「三角洲」に傍点]」という事だ。私達はこの会合の場所である佃島が三角洲であるところから、「デルタ」と日頃呼んでいた。
時子の言いたいことは私の心の静まったとき今一度このデルタへ来て呉れ、思い直して是非来てくれということを言いたかったのだ。
しかし私は遂に行かなかった。私はもっと無邪気な少女を恋の相手に欲しかったのだ。
私は時子が翌年死んだことを聞いた。それ以来私は何故か非常に憂鬱《ゆううつ》になってしまった。いろいろの名医に診てもらったがどうもはっきりせず、身体はやせる一方だ。私は此の年まで結婚は遂にしなかった。いやこれにも時子の呪いが被っているのかも知れない。
ところが先月の事だ。私は家の前でつづけさまに三日間、ものこそかわれデルタにちがいなき三角形のさまざまなものを見出さねばならなかった。私は時子の呪いの総勘定日が近づいたことを知った。いや其の上にそれからというものは時子の顔が窓の外にあらわれたりいろいろと変なことばかりが重《かさな》った。時子の顔と思ったのは、その弟である君の顔だという事に軈《やが》て気がついた。しかし其の時私は、時子の弟が、あからさまに時子の呪いを奉じて私を脅かしつつあるという新しい事実に戦慄しなければならなかった。
私は実に苦しい。君の家も調べさせてわかったから、今日にも突然君を訪ねて一切を話そうかという気にもなってはいる。しかし面《めん》と君に向うだけの勇気は中々起りそうにもない。
今日は朝から七年前のデルタの上で別れたことを思い出していると、どうやら今日は自分が死にそうな気がしてならない。このまま死んでは私の罪が一層重なるわけだから、今のうちに一寸|認《したた》めて君へ送っておきたいと思ったのである。
ただ一つ心係《こころがか》りは、どうして君が時子の呪いのデルタを探し出して私を脅かすようになったかという事である。しかしこれとて今は聴いても何の役にも立たぬことなのであるが……。
四月九日[#地付き]細田弓之助
[#ここで字下げ終わり]
私は此の手紙を読んで呆然《ぼうぜん》としました。私が十七歳のときに胸の病で別れた美しい姉がこんな秘密を抱いて死んだとは、始めて聴く事実でした。また細田氏が偶然私の選んだ試験台であり乍ら、亡き姉を捨てた恋人であった事は一層不思議なことでした。細田氏は私が事情を知って、氏を三角形《デルタ》で脅かしているものだと死ぬまで思っていたことでしょう。何はともあれ、細田氏の死去《しきょ》がのがれられない呪われた運命の仕業であることを知った私は、どんなに心が軽くなったことでしょうか。それからというものは私は見違えるように家の中でも快活になって何事も知らぬ母親を驚かしたり喜ばせたりしました。あの陰気くさい塔の森さえ暴風雨の前に立つ巨人の像のように雄大に仰がれるようになったことでした。
私の長い話はこれで大体御しまいなのです。が例の癖で最後に一寸だけ言わして貰いたいことがあるのですよ。それはこの話の中で貴方も御気付きのことだろうと思いますが、いくら私の姉が上手に細田氏のことを隠していたって生みの母に一度も疑われずに来たというのは随分おかしなことだと思うんですよ。私は此の頃ではどうやらこの事件の本当の内容が判って来たように思うんです。
私の臆測《おくそく》が若し間違っていなかったとするならばですね、私はやっぱり細田氏を三角形に脅かして間接に殺したことになるのです。つまり私の立てた説が本当に物凄い価値を現わしたことになるのですね。
あの手紙ですか。あれはあの晩尋ねて行った須永先生が、私のことを大変心配して、どうにかして若い身空の私に元気をつけさせようと思って、大いそぎであの手紙を創作したのじゃないかと思っています。
それに一つ根拠のあることは、母の話によると、実は姉の生きていた頃、姉は大変須永さんを褒《ほ》めていて、誰かが悪口を言うとしまいには泪《なみだ》を出して泣いた位だという事です。あの手紙の中にある細田氏のことというのは実は須永さんの創作にして、且つ須永さん自身の体験の一部を漏《もら》してあったのではないかと思うのです。遺憾《いかん》なことに須永さんもそれから数年後、英国へ留学して、あの地で奇妙なバクテリアに取憑《とりつか》れて亡くなったので、そんな事に気がついたときにはもう事実を須永さんから聴きただすことも出来なくなっていました。
そうなると私は罪を背負わねばならぬことになりますが、そんな事はどうでもよいという気がしています。いや貴方が今御覧の通り、これで体重が十九貫ありましてね、至極《しごく》呑気《のんき》に生きています。昔のような安価《あんか》なセンチメンタリズムに陥《おちい》るには、今のところ余りに健康すぎると言うわけなんですよ。ハハハハハハハ。
底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「無線電話」
1927(昭和2)年4月号
※「六ケ敷《むつかし》い」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
※「路地」と「路次」の混在は、底本通りにしました。
入力:tatsuki
校正:ペガサス
2002年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング