五分程過ぎたので私は路次から顔を出して窺《うかが》いますと、細田氏の姿はもうありませんでした。私はすっかり計画が当ったのに雀躍《こおど》りしながら、さりげなく蟇口を棄てたところに近付いてみますと、其の蟇口は側の溝《みぞ》の中に転って居ました。それは多分ステッキで上から押して見て何も入っていないと知るとステッキの尖《さき》でこの溝へ弾《はじ》き込んだものにちがいありませんでした。私はとも角も其の蟇口を拾い上げて逸早《いちはや》く其場を立ちのくと共に、細田氏の眼底に、この毒々しい赤い三角形が刻み込まれたことを信ぜずには居られませんでした。
斯《こ》うしておいて其の翌日は、細田氏に三角形の原質的な記憶を呼び起さしめるために同じような時間に出向いて、あれから少しはなれた道路の上に、小さいセルロイド製の三角定規《さんかくじょうぎ》を落して置きました。
細田氏は例の如く急ぎ足に出て来ましたが今日は少しも立ちどまりもせず、下駄で蹴とばしもせず、棄てられたセルロイド製の三角定規の側を過ぎて行ってしまいました。その三角定規が細田氏の眼にうつらなかったのだか、或いはそれが充分意識せられ、私の思いどおりに昨日の記憶を呼び起して不審な気持を抱《いだ》き乍らも何気なく立ち去ったのであるか、一向判りませんでした。
これでは折角《せっかく》の計画も駄目だと思ったので、翌日はもう少し薬を強くきかせることに決心いたしました。この為めに私は真黒な羅紗紙《らしゃがみ》を小さい乍らも鋭い角を持たせるように切りぬきまして、其の上に新聞紙から「呪」という字を苦心の末、やっと三つ見付けて来て、これをその三角の片隅に三つの文字が三角形をなすように貼りつけたものを作りました。これを懐にして出かけた私は大胆にも、細田氏の石の門のすぐ前にいかにも目につきやすく落しておきました。そのあとで例の路次からいまにも出て来るであろう細田氏の挙動《きょどう》を少しでも目から放さないようにしようと思いました。
この露骨な企《くわだ》ては到頭予期以上に成功したのです。細田氏は門のところへ、ツカツカと出て来るや否や、いきなり飛び上るように身を退いて、例の三角形の切抜きのある地上を見つめたではありませんか。私は一寸|残忍性《ざんにんせい》を帯びた微笑をせずには居られませんでした。細田氏は四辺《あたり》をキョロキョロと見廻しましたが、身を屈めて例の黒い三角形を取上げると、クルリと後へ向いて再び門の中に消えてしまったのです。それから五分たっても十分たっても其の姿は現われませんでした。
私は思いの外にうまく行った事を喜びました。医科の助教授連が学用モルモットを殺すときの気もちに似た残虐的《ざんぎゃくてき》快感に燃え立ったのでした。細田氏が十分間|経《た》っても姿を現わさないのは恐らく氏が自分の室にかえりあの呪いの三角形を見て前日のことを思い浮べ外へ出る気にならないのだろうと思いました。あの分では細田氏は前日の三角定規も確かに認めたのに相違あるまいという事が考えられもしました。あの尖《ほそ》い神経の持ち主が、ここまで来ればもう一寸やそっとでは、此の三角形の脅迫観念から退れることはできまいという事も思い合わせることが出来ました。
科学に縁遠《えんどお》い人間に、三角形に対する恐怖を抱かせることの出来た私は、もうそれで所信の点を充分確かめ得たわけですから、此所で手を引くのが当り前でした。しかしいつの間にやら私の興味はこういう概念的《がいねんてき》なことよりも、細田氏という一個の人間を操《あやつ》ることの現実的興味に変じてしまっていたものと見えて、私は更にそれからそれへと三角形の恐怖の段取りを進めて行ったのです。それが為めに到頭後に御話するような取返《とりかえ》しのつかない事件をひきおこしてしまったのでした。
兎も角、それ以来というものは細田氏の病院通いがパタリと中止されました。私は邸前の路地や、空地の片隅に佇んだまま無駄な数日を送りました。表からは勿論のこと裏の木戸からも、細田氏の姿は一寸も現われることがありませんでした。私は今用意して来た恐怖刺戟の種が数日間も氏に供給せられないために、ここまで搬《はこ》んだ計画が途中で妨《さまた》げられてしまうんではないかと思って大いに気をくさらしましたが、よく考えて見ますと、あれからのちは私自身が手を下さなくとも、細田氏は自分でいつでも到る所、身のまわりに三角形の空間を見出して独りで三角形の恐怖を加速度的に増大させていたに違いはないのです。
たとえばですね、時計の指針は一日に数十回に渡って鋭角を形作ります。窓から陽が斜に入れば三角形の影が沢山出来るわけです。用箋を繰れば、偶然に枠《わく》が傾斜《けいしゃ》をして紙と縁と三角形をなしていることもないとは言い切れ
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