見ると買わずには通り過ぎることが出来ない位でした。あの下の方へ細っそりとした鋭角《えいかく》はノウノウとした気分でいる子供の食慾を引きつけずには置かないのでした。鋭角と子供の食慾との間には必ずや或る真理が横《よこた》わっていると私は思っていたのです。こんな日頃の感じが今の場合のヒントを与えて呉《く》れたのかも知れません。兎《と》に角《かく》私は「三角形の恐怖」といったようなものを或る人間に抱かせてみようと決心したのです。
そうなると此度は試験台になる人間を見付けなければなりません。それからと言うものは学校の行きかえりに「三角形の恐怖」を容易にひきおこしそうな人物を一生懸命で物色したものです。十日ほどの辛抱《しんぼう》ののち私は頃合いの犠牲者を到頭《とうとう》見付けることが出来ました。これが例の細田弓之助[#「細田弓之助」に傍点]という人物です。この細田氏の名前が弓之助であることや、其の時三十三歳であったことは、後に例の新聞記事が出た時始めて知ったような訳なのでした。三十三歳とは見えぬ位、細田氏は私の拝見した当時からふけ込んでいました。背は高くて後を向くと肩が寒そうにいかっていました。別に寒い日でもないのに青い顔に黒いマスクを懸《か》けて、私と同じように中野駅におずおずと落付かぬ様子で降り立ったのを見付けたのが、恰度《ちょうど》例のことを念じてから十日目でした。
私は細田氏が東中野駅の附近に家を持っていて呉れればよいと思いました。其の人が特に其の日だけたまたま此の駅に降りたのであったら、其の住居の方へ追いかけて見てもあまり遠いところなら私の実験を行う上に於《おい》ていろいろと不便が感ぜられるに違いありませんでした。が幸にも細田氏はあの駅を下りて私の方とは反対の側に行ったところなんですけれども駅から二丁ばかりのところにあって可成《かな》り大きな家を構えて居りました。これは段々わかった事ですが、細田氏は当主《とうしゅ》の次男であって、当主は数年前からここに居を構えていられたのでした。
私はまず此の実験を行うに当って出来るだけ細田氏の行動を観察して其の性格を理解したいと思いました。又其の職業も私のように理科や工科の人であったり、或いは画家であっても困ると思って細田氏の行く先々にも度々ついて行きましたが、都合のよい事に細田氏は無職で毎日何をするという事もなくブラブラしている身分で、たまに出掛ける先は病院であったり、買物であったりして、友人も案外少いことが判りました。
大体そんなことが判ると私はいよいよこの犠牲者に対して実験を行うことに取りかかりました。恰度学年試験が漸く済んで一寸一ヶ月の休暇が私に与えられていました。私の探偵したところによると、其頃細田氏は毎朝神田の白十字会病院まで注射をうけに行くということが判っていましたので、私は躊躇《ちゅうちょ》するところなく事を始めました。
最初の日は私はわざわざ下町で買い求めて来た正三角形の皮製蟇口《かわせいがまぐち》を犠牲にすることにしました。この蟇口を細田氏の歩む道路上に捨てて置いて拾わせようという考えです。私は其の日予定の時間に三角形の蟇口を懐中に忍ばせて細田氏の邸の方へ出向きました。細田氏の宏壮な構《かまえ》の前には広い空地《あきち》があって其の中を一本の奇麗な道が三十間程続いてその向うに小ぢんまりとした借家《しゃくや》が両側に立ち並んでいました。駅へ出るには、細田氏はどうしてもこの道を歩かねばなりません。
神経質な細田氏が病院へ出かける時間は大体午前九時三十分に決っていて、必ず其の時間には紋切型に氏の長身が太い御影石の門に現われるのでした。私は細田氏に拾われることを信じ乍《なが》らも万一他の御用聞きなぞに拾われることをも覚悟の中に入れて定刻二分前に門前十歩ほどの路上に其の三角形蟇口を落しておきました。そして直ぐさま身を飜《ひるが》えすようにして門前につづく広い空地の片隅に佇《たたず》んで細田氏の姿の現われるのを今や遅しと待っていました。
果して間もなく細田氏は例の力なさそうな姿を門前にあらわすと、スタコラと白い路をすすみ出ましたが、どんな無神経ものの眼にでも気がつかずにいない赤い三角形の蟇口はやすやすと細田氏の注視の標《まと》となり、氏の桐《きり》の下駄は戛《かつ》と鳴って、三角形蟇口の前に止りました。直ぐ拾い上げるだろうと予想した事ははずれて細田氏はステッキでちょいちょいと其の蟇口をいじって見ましたが、突然顔をあげて辺りを見廻しました。勿論《もちろん》私の姿も目に入るに違いなかったので私はつと横の路次《ろじ》の方へ大急ぎで飛び込んでゆきました。私は細田氏が何か大声をあげて私を呼びはしないかと思いましたが、一向声もきこえず、いつ迄たっても元のように静かでした。
それから
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