ぬことです。万年筆の尖《さき》も三角なら、女のひたいも三角形をなしているのでしょう。それからそれへと限りなくこの最も簡単な空間は細田氏の前に展開して氏の恐怖は地獄を駆けまわっていたことでしょう。
細田氏が家から一歩も出ないという事が判ると私は更に手段を講じて氏を又別の方法で脅迫することを忘れませんでした。配達された郵便物の上に無気味《ぶきみ》な三角のマークをつけることも、少々冒険ではありましたが、やって見ました。これは帽子もかむらず勝手口《かってぐち》の傍で草でもむしっているような恰好をすれば、郵便配達夫は何の疑いもなく郵便物を私に手渡して呉れます。また細田氏の窓に三角形の凧《たこ》を飛ばせて引っかけたり、子供たちに紙でつくった三角形の帽子を被らせて庭で遊ばせたり、いろいろなことを試みました。
しかし折角の試みも細田氏が外に姿を現わさないので、その恐怖がどの位まで氏に影響しているかを明《あか》らさまに知ることは六ケ敷《むつかし》いことでした。これが活動写真かなにかなら私が変装でもして邸の中に入り込むのですが、それ程大胆な事は出来ない。学生らしい弱気も充分にあったのです。こんな訳で呼べども答えずといったような有様に私は少し興味を失いかけて、邸前の空地にあらわれることも何時とはなしに疎《おろそ》かになって行きました。
ところが長々と育《はぐく》まれて来た呪《のろ》いは、遂に最後のカタストロフを導き出すことになったのです。それはもう三月も暮れ、四月に入って学校の授業も一両日中には始まろうという日でした。私は残り少くなった休暇をせめて一日でも有効に使い度《た》いと思って珍らしくも、私の先輩にあたる須永《すなが》助教授を、染井《そめい》の家に訪うために、少し遅い朝飯《あさはん》をしまうと、東中野駅の方へブラブラと歩いて行きました。あれで三四丁もありましょうか、クネクネとした路を通り切って其処は駅まで一本道になっているところまで来ましたとき、見るともなしに向うを見ますと、一寸始めは気がつかなかったのですが、相貌《そうぼう》こそやつれたれ常にかわらぬヒョロ長い細田弓之助氏がこっちへセカセカと歩いて来るではありませんか。私は今少しで大きな声を立てるところでした。驚いたことに細田氏はすっかり痩せてしまって、其の顔は髯《ひげ》こそすってあるが顔の下にある骨のかどかどがはっきり見えるほど頬はこけ落ち、前よりも三倍も大きくなったかと思われる其の眼はいやに血走っていました。
私は相手が既に私を知っているかどうかを考えました。若《も》し細田氏が邸の前に不審な挙動をして徘徊《はいかい》する私を窓越しにでも見覚えているものとすれば、私が彼に近付いたとき大きな声でも立てられて「この学生は曲者《くせもの》だから、ふん縛れ!」などと喚《わめ》かれでもしようものなら大変だから、逃げた方がよいと思いました。そうで無くて細田氏が私を例の三角形事件と結び合わして承知していないのなら、私は平然と狂犬の如き氏の横をすれちがって通るのがよい。たとえ理由なくとも、今向うからやって来る氏の顔を見て逃げ出したのでは錐《きり》のようになっている敏感な氏は瞬間に万事を悟って誰彼の容赦なく、忽《たちま》ち狂犬の如く咬みつくことであろう。そう思うと流石《さすが》に私も進退谷《しんたいきわ》まって、いつの間にか往来に立ち停ったのでした。
其の時でした。不意に横丁から笛と太鼓と鉦《しょう》との騒々《そうぞう》しい破れかえるような音響が私の耳を敲《たた》きました。と早や私の身体を前に押し出すようにして私の前に躍進したのは、近所の寄席の番組がわりでも触れて歩くらしい広告屋の爺さんで、背中には赤インキで染めたビラを負い腹に釣った大きな太鼓の前には三角の広告旗を沢山つけ、背中のうしろからのび上った竿の先に身体を全体を蔽《おお》うかのように拡げてとりつけられた紅白だんがらの花傘の上にまで、一面に赤い三角旗を樹《た》てまわしていました。
私は一瞬間このグロテスクな闖入者《ちんにゅうしゃ》に驚かされましたが、直ぐ眼前の敵である細田氏の姿に眼をうつしました。其時アッと思う間もなく細田氏はクルリと背後《うしろ》を見せるが早いか蝙蝠傘《こうもりがさ》を拡げたような恰好をして向うへ逃げ出しましたが、直ぐ左手にあった喫茶店へ大遽《おおあわ》てで飛び込んだものです。
其の姿を一目見ると私は何もかも事情が判ってしまいました。いや何も知らない広告屋の爺さんは、細田氏の恐怖の標《まと》である三角形の旗を身体中にヒラヒラとひらめかして凱旋将軍《がいせんしょうぐん》の如く向うへ押しすすんで行くではありませんか。私は急に身体が軽くなるのを覚えました。そしてカラカラと笑いたくなりました。
実に其時です。細田氏が今|遁《
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