に》げ込んだ喫茶店から、白いエプロンを締めた女が戸口へ真青な顔をして飛び出して来ましたが、
「大変です! 誰か早く来て下さァーい」
とバタバタ足踏みをし乍ら両腕を頭の上に差しあげてうち振りました。絹を裂くような若い女の声に喧噪《けんそう》の渦巻の中にあったような流石の広告屋の爺さんも驚いてあとをふりむくと喫茶店の戸口へ馳けつけました。続いて近所から人がバラバラと飛び出して来て喫茶店の方に集って来ました。若い女は何か訳のわからぬことを喚き乍ら戸口から家の中の方を指さします。人々はドヤドヤと入って行きました。
これは只事ではない。私はあの中へ飛び込んだ細田氏が出て来ないのが不思議に思われました。しかし次の瞬間には、これは細田氏がどうかしたのに違いないと思いました。私は又何日かのように残忍性の興味が身体中から噴水のように湧き出て来るのを感ぜずには居られませんでした。そうなると奇妙にも勇気が出て来て、私は脱兎《だっと》の如く、駈けつける近所の人の袖の下をくぐって、喫茶店の中に飛び込みました。ああ、しかしそれは何という物すさまじい光景であったことでしょうか。
この喫茶店の室内装飾は実に奇怪を極めた表現派|様式《ようしき》のものであることが一目見て判りました。其処には不思議な形に割れた三角形がその室の至るところに怪《あや》しい立体面《りったいめん》を築き上げていました。室の壁紙は白と黒と黄との畳一枚位もあろうと思われる三角形ですさまじい宇宙をつくっていました。七色とりどりの酒瓶が並んでいる帳場《ちょうば》の棚には、これも鋭角三角形でとりかこまれていました。
それよりも一層驚かされたのは此の室の片隅に細田氏が仰向《あおむ》きに倒れ手足は蜘蛛《くも》の如く放射形に強直され、蒼白《そうはく》の顔には炯々《けいけい》たる巨大な白眼をむき出し、歯は食いしばられて唇を噛み、見るもむごたらしい最後を遂《と》げていました。驚いたのは、そればかりではありません。細田氏の屍《かばね》の側には四角なテーブルが、対角線のところから三角形をなして真二つに割れて転《ころが》っているのでした。
私ははげしい戦慄《せんりつ》に襲われました。そして三角形恐怖事件に関する今までの悉《ことごと》くの事柄が浮び出て脳髄《のうずい》の中を馳けまわるように覚えました。私は、其の三角形に割れたテーブルが、表現派好みの三角形のテーブルを二つ並べ合わせてあったのが転って二つに割れたように見えたのだということを知る余裕もなく、飛ぶように喫茶店を出ると一直線に家へかえりました。そして自分の机の前に身体を抛《な》げ出すと共に、此のあさましい試みが生んだ惨劇《さんげき》の中に、間接ながらとりもなおさず殺人者である自分を見出して、はげしい自責《じせき》と恐怖とに身を震わせました。
それから時計は徐《しず》かに廻りました。夕方に配達された夕刊には「カッフェで大往生」と題して「細田弓之助(33)が喫茶店『黒猫』で頓死したが、原因は病《や》み上《あが》りの身で余り激しく駈け出した為、心臓|麻痺《まひ》を起したものらしい」とあったのです。私は懊悩《おうのう》のたえ切れない苦しさを少しでも軽くしようと冀《ねが》って、昼間出掛けようと思った先輩の須永助教授のところを訪い、一切を告白して適当な処置を教えて貰おうと決心しました。
外へ出てみますと其の日の惨劇を忘れたような静かな夜《よ》の幕《とばり》はふかぶかと降りていました。例の喫茶店さえ、どこに死人《しにん》があったかというような賑《にぎや》かさで、陽気な若い男の笑い声が高く大きく街路へまで響いていました。私は少しは気が軽くなって、其の前をすり抜けるように通り過ぎて、駅に出ました。
染井の須永先生の書斎に通されたのは、もう九時を廻っていたのでした。私は早速三角形恐怖の試験をはじめるイキサツから今日の惨劇を見るに至るまでの事を緊張裡《きんちょうり》に細々と告白しました。須永先生は短い口髯を指尖《ゆびさき》でもみながら静かに傾聴《けいちょう》されましたが、私の言葉が終ると、低い声で軽々《かろがろ》と笑って、
「君は此頃ちと神経衰弱のようだよ。若い身空《みそら》で、そんな小さいことをくよくよ心配していると、君の姉さんのような病気に乗ぜられるかも知れないよ。日本全電力を火山を利用する火力発電に悉く改めてしまおうという大計画を抱いていた日頃の君とも思えないじゃないか。そんなことは心配する必要はちっともないよ」
と言って呉れました。私は常日頃尊敬する須永先生からこの軽々とした評言を聞くことが出来て喜んだのは当然です。それでも多少の悔恨を持って家に帰りました。いやまだ少し話の先があるのですよ。
其の翌日《あくるひ》のことでした。差出し人の書いてない手紙が
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