、それは想像に委せる。私は時子を砂の上につき仆《たお》して逃げたのである。其のとき、時子は発作《ほっさ》に襲われて激しく咳《せき》こみながら叫んだ言葉がある。それは「デルタ、デルタ」というのだ。其のさきは咳がはげしくなったのでどうしても言えなかったのだろう。私はそれでも逃げた。しかし彼女が別れのときに苦しい息の下から言わんとした意味はよく私にわかっていた。
 デルタというのは君も知っている通り「三角洲[#「三角洲」に傍点]」という事だ。私達はこの会合の場所である佃島が三角洲であるところから、「デルタ」と日頃呼んでいた。
 時子の言いたいことは私の心の静まったとき今一度このデルタへ来て呉れ、思い直して是非来てくれということを言いたかったのだ。
 しかし私は遂に行かなかった。私はもっと無邪気な少女を恋の相手に欲しかったのだ。
 私は時子が翌年死んだことを聞いた。それ以来私は何故か非常に憂鬱《ゆううつ》になってしまった。いろいろの名医に診てもらったがどうもはっきりせず、身体はやせる一方だ。私は此の年まで結婚は遂にしなかった。いやこれにも時子の呪いが被っているのかも知れない。
 ところが先月の事だ。私は家の前でつづけさまに三日間、ものこそかわれデルタにちがいなき三角形のさまざまなものを見出さねばならなかった。私は時子の呪いの総勘定日が近づいたことを知った。いや其の上にそれからというものは時子の顔が窓の外にあらわれたりいろいろと変なことばかりが重《かさな》った。時子の顔と思ったのは、その弟である君の顔だという事に軈《やが》て気がついた。しかし其の時私は、時子の弟が、あからさまに時子の呪いを奉じて私を脅かしつつあるという新しい事実に戦慄しなければならなかった。
 私は実に苦しい。君の家も調べさせてわかったから、今日にも突然君を訪ねて一切を話そうかという気にもなってはいる。しかし面《めん》と君に向うだけの勇気は中々起りそうにもない。
 今日は朝から七年前のデルタの上で別れたことを思い出していると、どうやら今日は自分が死にそうな気がしてならない。このまま死んでは私の罪が一層重なるわけだから、今のうちに一寸|認《したた》めて君へ送っておきたいと思ったのである。
 ただ一つ心係《こころがか》りは、どうして君が時子の呪いのデルタを探し出して私を脅かすようになったかという事である。しかしこ
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