まうのです。帰って来て小川の縁《ふち》に立ちかぶさるように拡《ひろが》った塔の森を仰ぐと今までの快活が砂地に潮がひくかのようにすっと消えてしまって、眼の下に急に黒い隈《くま》が出来たような気になるのでした。
 そうなるといつまでも黙りむっつりとして其の日教わって来た数学の定理の証明を疑ってみたり、其の頃流行の犯罪心理学の書物に読み耽《ふけ》ったり、啄木ばりの短歌を作ったりしていました。
 そんな調子の生活の中から私は遂に一つのトピックスをみつけ出したものです。それは例の犯罪心理学の書物と、自分の勉強している数学との両方から偶然に醗酵して来たものであったのです。私の考えでは人間が脅迫《きょうはく》の観念に襲われる場合に其の対象となるものは、平常其の人間がついうっかり忘れていたとか、気をつけていなかったものに偶然注意が向けられた結果、急に其のものに対する注意が鈍くなって遂に一つの脅迫観念が萌《も》え上って行くのであって、其の対象となるものが単純で、且つ至るところに存在しているもの程、脅迫観念を加速度的に生長せしめるのではないかと思ったのです。いや思ったどころか次の瞬間には必ずそうに違いないと考えました。そうなるとその儘《まま》では抛《ほう》っておけないような気がして、早速これを実験して事実の上にも明かな結果を出してみたくなりました。
 私はそれから色々と「単純で、至るところに存在するもの」であって、人間が「うっかり忘れているもの」をあれやこれやと考えて見ました。考えてゆくうちに私は一つの面白い目標にカチリとつき当りました。
「三角形! そうだ」
 三角形は三つの線分で作りあげることの出来る最も簡単な空間であります。私たちのように数学を、しょっちゅう勉強しているものには三角形なんて忘れようとしたって忘れることの出来ないものですけれど、数学に縁の遠い人なら此の最も簡単な空間であるところの三角形をついうっかり忘れているかも知れないと思いました。それに三角形の現わす奇異な感情は、円とか五角形とかのあらわすところとは余程《よほど》趣きを異にしていて、如何にも我が意を得たる絶好の対象物だと思ったのでした。
 私は小さい頃から南京豆《なんきんまめ》の入っているあの三角形の袋が好きでした。駄菓子屋《だがしや》の店先などに丸い笊《ざる》の中に打ち重ねて盛りあげられた南京豆の三角形の紙袋を
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