時計屋敷の秘密
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)気味《きみ》のわるい
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)代々|庄屋《しょうや》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)それは[#「それは」は底本では「それが」]
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気味《きみ》のわるい名物
「時計屋敷はおっかねえところだから、お前たちいっちゃなんねえぞ」
「お父《と》うのいうとおりだ。時計屋敷へはいったがさいご、生きて二度とは出てこられねえぞ。おっかねえ化け物がいて、お前たちを頭からがりがりと、とってくうぞ」
「化け物ではねえ、幽霊だ」
「いや、化け物だということだよ」
お父《と》うとお母《か》あが、そこで化け物だ幽霊だと、口争いをはじめてしまったが、とにかくこの「時計屋敷」のこわいことは、村の子供たちはよく知っていた。
その時計屋敷とは、いったい何であろうか。
この左内村《さないむら》の東はずれにあたる山腹に、昔からこの時計屋敷が見られた。がんじょうな塀にかこまれた邸で、まん中に二階づくりの西洋館があり、そして正面にはりだして古風な時計台がそびえているのだった。
その時計台も洋館も、昔からあれはてていて、例のおそろしいいいつたえと共に、だれも近づくものはなかった。
窓の戸はやぶれ、屋根には穴があき、つきだしたひさしはひどくひん曲っていた。ペンキの色もすっかりはげて、建物はミイラ色になっていた。
時計台の大時計は、二時をさしたまま、動かなくなっていた。今この村に生きている者で、誰もこの時計が動くのを見た者がなかった。
この時計屋敷が、いつ、そこに建てられたのかそれを知っている人は、あまり多くなかった。それは[#「それは」は底本では「それが」]明治維新の前後に出来たもので、どこの国の白人かはしらないが、ヤリウスという鼻の高い赤いひげのからだの大きな人が、そこへあれを建てたということだ。
一説に、そのヤリウスは、白人と日本人の混血児だとも伝えられていて、この方が正しいのかもしれないと思われる。
とにかくそのヤリウスは、百五十人ばかりの人を連れて来て、その建築工事をはじめた。左内村の人たちは、ぜひその仕事にやとってもらいたくて、代々|庄屋《しょうや》の家柄の左平《さへい》をはじめ若者たちもその工事場へいってたのんだのであったが、ヤリウスは首を左右にふって、左内村の人間をただ一人もやといいれなかった。村人は、がっかりし、そしてヤリウスをうらみ、時計台をにらみつけては新築屋敷のことをのろった。
建築は手間どって、春から始めた工事がすっかり出来上ったのは、夏も過ぎ、秋もたけ、木枯《こがらし》の吹きまくったあとに、白いものがちらちらと空から落ちて来る冬の十二月はじめだった。さかんな新築祝いの宴が、時計屋敷で三日三晩にわたって行われたのち、百五十人の建築師たちは、村人にあいさつもせず、風のようにこの土地を去った。
それと入れ替えに、その翌日たくさんの荷物を積んだ馬が屋敷へはいっていった。そして、それから時計屋敷の窓々からは、あかるいともし火がかがやき、ヤリウスの豪華な生活がはじまったのである。
ヤリウスは、そこに四五年住んでいた。
そして、とつぜん彼の姿は村の人の目から消えた。窓のともし火も、急に数がへった。
人のうわさでは、ヤリウスが日本を去ったともいい、またヤリウスが、とつぜん死んだのだという者もあった。
どっちかしらないが、それから間もなく、この時計屋敷の買手を探しているそうなとの話が流れ、商人らしい服装の人が何人となく時計屋敷を入ったり出たりした。
庄屋の家柄の左東左平は、前から時計屋敷のことを心の中にきざみつけていた。ヤリウスには恨みをいだいていたこともあったが、時計屋敷ができあがったのちは、あの屋敷にたいへん心がひかれ、自分もなんとかしてあんな様式の家をつくりたいものだと思い、いろいろ考えていたところだったから、その屋敷が売物に出たとの話を耳にすると、さっそくかけつけて、せり売の場にはいっていい値をつけた。
そして結局、左平がこの屋敷を買取ることにきまった。金額はいろいろとうわさされたが、とにかくヤリウスの家扶の門田虎三郎《もんだとらさぶろう》は、左平から金を受取ると、屋敷を明けわたして出ていった。
大よろこびの左平だった。
さっそく家族をつれて、この屋敷へひっこした。妻君のお峰《みね》と一人娘の千草《ちぐさ》と、あとは雇人が十人近くいた。
左平のとくい顔が見られたのは、それから半年あまりの間だった。そのあとは、左平の顔には何だかやつれの色が見え、そして何事かについてあせっているようだ。
それを村人がしんぱいして、それとなくわけをたずねたが、左平はいつもかぶりをふって、
「何も、しんぱいなぞしていない、そんな話はもうごめんだ」
と、耳を貸すのもきらった。
その左平は、ちょうど一年ほどたって、時計台の天井にひもを下げ、自分の首をくくって死んだ。遺書があった。
「いのちがおしいものは、この屋敷に近よるな。左平」
と、かんたんな文句がしたためられてあった。
左平の自殺を見つけたのは、雇人の喜三という老人だったが、そのしらせに村人がこの屋敷へかけあつまったとき、さらにへんな話を聞いた。
それはこの一ヶ月ばかり、奥様も千草も共に雇人たちに顔を見せず、そのことを旦那さまの左平にいうと、左平のきげんがたいへんわるかったとのことだった。
そこで、みんなで手わけして、各部屋をさがしてまわった。
すると、おどろくべきものを発見した。
二階の奥の居間に、はなやかな女の蒲団《ふとん》が二つしいてあるのを見つけた。たしかに人がねている形だったが、蒲団をあたまからかぶっている。それがおかしいというので、みんなして蒲団をめくってみたら、中には白骨がねていた。骨がばらばらになっているが、たしかにどっちも一人分の白骨がねていたのである。
さあ、みんなびっくり仰天《ぎょうてん》、にげ出す者もあれば、その場で腰をぬかす者もあった。そうして、ほうほうのていで、時計屋敷からにげだしたのであった。
古い話は、まずこれだけである。それ以来この時計屋敷は、極度にこわがられ、そして荒れるにまかされていた。村人でなくても、こんなおそろしい因縁《いんねん》ばなしを聞けば、だれだって時計屋敷へ近よるのはやめるだろう。
恐《おそ》れる人、恐れぬ人
だが、世の中は、このところ、たいへんかわった。
そのわけは、住宅難のこと、資材難のこと、物価がたいへん高くなったことなどのために、戦災で焼けのこったありとあらゆるものが、新しい目で見直されることだった。
この左内村に対しても、県から達示《たっし》があって、「家のないたくさんの戦災者のために、なんとかして住める部屋をできるだけたくさん探して報告せよ。また修理をしないとはいれない部屋があれば、どのくらいの修理を必要とするか、それも報告せよ」といって来た。そしてこの達示はたいへんきびしく、左内村に対しても、あるきまった数以上の部屋を申告《しんこく》するように、わりあてて来た。
村では困って、毎日のように会議をかさねた。部屋をもたない者はないわけではなかったが、気心《きごころ》もわからない人たちがはいって来て、同じ屋根の下に住むということを考えると、つい心がすすまなくなるのだった。
しかし「部屋なし」と報告することはできないので、みんなしぶい顔をして、ため息をつくばかりだった。
「どうだね、あの時計屋敷を手入れして、あれへ戦災者《せんさいしゃ》をむかえたら、どうだろう」
そういった者があった。
「いや、それはだめだ、そんなことは出来ることじゃあねえ」
「あの屋敷のことはいわないことだ、とんだ災難が、村の衆の頭の上にかかってくるだ」と、まっこうから反対の声をあげた者は、昔から代々この村に住んでいる人たちだった。その声には、あきらかに恐怖のひびきがあった。
だが、それと意見の違った者もいた。
「はははは、時計屋敷の怪談かね。三年前にも、幽霊が窓から顔を出していたのを見たという話も聞いたが、今どき、そんなばかばかしいことがあってたまるか。第一によ、県から役人がきて、あの建物はなんだ、空いているようだねと聞かれたときは、どういって返事をするね、いえ、あれは幽霊屋敷でございまして、人間が住めませんでございますなんて、そんなばかくさい返事がぶてるものか、ぶてないものか考えてみりゃ分る」
「北岸さんの意見に、僕も賛成だね。幽霊屋敷だとか、お化けのうなる声がしただのというばかげた話は、まじめになって出来ないですからね。あちらの人に聞かれても、日本人はなんという科学性の低い国民だろうと、けいべつされるばかりだ。だから、これからみんなであの屋敷へいって窓をひらき、掃除をし、そしてどこを修繕《しゅうぜん》すると住めるか、それもしらべて県へ報告しようじゃないですか、そうすれば、あの屋敷一軒だけで、県からこの村へ割当てしてきた部屋の広さは十分にあると思う」
北岸に賛成したのは吉見だった。この二人に賛成する者が、外にも五六人あった。それらの人たちは、いずれも明治維新ごろからこの土地に住んでいた家の子孫ではなく、近年この村に住むようになった人たちであった。もっとも、そういう人たちの中にも、時計屋敷には手をつけるなという旧家の連中の方に賛成する人たちもあった。
この会議は、なお二日ばかりつづいたが、結局は北岸や吉見の説が採用され、それにもとづいて時計屋敷の大掃除が行われることにきまった。
「聞いたかよ、おそろしいこんだ。時計屋敷を掃除して、あそこに人が住むんだとよ」
「これは困ったことだ。今にみんな、おそろしいたたりに泣き面をして暮らすようになるだべ」
「子供たちによくいいきかしとけよ、子供は、こわいもの知らずだから、新興班《しんこうはん》について、幽霊屋敷の中へはいるかも知れんからな」
「そうじゃ、うちの音松なんか、よろこんで時計屋敷の探険に行くちゅうだろう。はて、これは又気がかりなことがふえたわい」
そのようなわけで、旧家の人たちは、自分たちの子供に、時計屋敷へ近よってはならぬぞと、子供の顔を見ればいましめるのだった。
さて時計屋敷の大掃除をするに先立って、その下検分《したけんぶん》のために、七人の有力者が、屋敷へはいってみることになった。これがいわゆる新興班の連中で、北岸が班長、吉見がその副班長だった。
それはよく晴れた初夏の朝だったが、この七人は塀《へい》に縄ばしごをかけて、時計屋敷へ乗りこんだ。人々がよく働いているのが、お昼頃、村道からながめられた。しかしその七人は、その後どうしたわけか、邸《やしき》から出て来なかった。みんな行方不明になったのである。そら、いよいよ始まったと村の人たちは時計屋敷のたたりにふるえあがった。
この事件がきっかけとなって、八木音松《やぎおとまつ》をはじめとする少年探偵団の活躍が始まるのであった。
探偵団の結成
とうとう怪事件を、ひきおこしてしまった。いわないことじゃない。それだから、時計屋敷には手をつけるなと、昔からいいつたえられているのに、ばかなことをしたもんだ。
時計屋敷におそろしいのろいのかかっているのを信じている左内村の老人たちは、北岸の治作《じさく》さんほか六人の若者たちが、われからそのような悪い運命におちこんだのを悲しみ、そしてなげいた。
「も、誰も時計屋敷に近づけるんじゃないよ」
「あの屋敷に一足ふみこめば、地獄の血の池地獄までさかおとしじゃ」
そういうことばが、合言葉《あいことば》のように、左内村の中を何十ぺんとなく往復した。
この行方不明事件は、警察署へも報告された。しかし二名の警察官が自転車にのって、村長のところへ様子を聞きに来ただけで、警官は時計屋敷には足を入れず、そのまま帰ってしまった。
「おまわりさんだって、いやだよなあ。あんな幽霊屋敷にはいって
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