今昔ばなし抱合兵団
――金博士シリーズ・4――
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)金博士《きんはかせ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一体|貴公《きこう》の

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(例)[#ここから2字下げ]
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     1


 なにがさて、例の金博士《きんはかせ》の存在は、現代に於ける最大奇蹟だ。
 博士に頼みこむと、どんなむつかしそうに見える科学でも技術でも、解決しないものは一つもない。雲を呼んでくれと博士にいえば、博士はそこに並んでいる壜《びん》の栓《せん》を片端《かたはし》から抜く。抜けば、壜の中よりは、濛々《もうもう》たる怪しき白い霧、赤い霧、青い霧、そのほかいろいろが、竜巻《たつまき》のような形であらわれ、ゆらゆらと揺《ゆ》れているのを面白がっている間に、いつしか部屋の中は一面の霧の海と化《か》してしまって、そのうちに博士がどこにいるやら、実験台がどこにあるやら、はては自分の蟇口《がまぐち》がどこにあるやら、皆目《かいもく》分らなくなってしまうというようなわけで、結局金博士の智慧を験《た》めそうとした奴の蟇口の中身が空虚《から》と相成《あいな》って、思いもかけぬ深刻《しんこく》な負けに終るのが不動の慣例だった。
「おいおい、ちょっとしずかになったと思ったら、ひどいことを書きおる。わしは瓦斯《ガス》の研究をやっているから、赤い霧、青い霧の話はいいとして、蟇口がどうとかしたというくだりは、どうも人聞きが悪いじゃないか。わしの人格にかかわる」
 いつの間にか、私の背後《うしろ》から金博士が、原稿用紙をのぞきこんでいたのを、私は知らなかった。
 そこで私は、ペンを休ませないで、こういったものである。
「金博士、私があれほど教えてくださいと懇願《こんがん》していることに博士が応《こた》えてくださらない限り、私は博士の有ること無いことを書きなぐって、パンの料《しろ》にかえながらいつまでもこの上海《シャンハイ》に頑張《がんば》っている決心ですぞ」
 そういって私は、前の卓子《テーブル》に噛《かじ》りつく真似《まね》をしてみせた。
 すると博士は、人並《ひとなみ》はずれた大頭《おおあたま》を左右にふりながら、
「はてさて困った男だ。まるで蒋介石《しょうかいせき》みたいに攻勢的同情《こうせいてきどうじょう》を求めるわい。しかしいつまでもわしの部屋に頑張られても困るが、一体|貴公《きこう》の教わりたいという事項は、何じゃったね」
「あれぇ、金博士はもうそれをお忘れになったんですか。そんなことじゃ困りますね」
 と、私は大袈裟《おおげさ》に呆《あき》れてみせて、ひとのいい博士の、急所に一槍《ひとやり》突込《つっこ》んだ。
「ああそれは済まんじゃった。はてそれは何のことだったか、ああそうか、殺人光線のエネルギー半減距離《はんげんきょり》のことだったかね」
「いえ違いますよ。博士、私が教えてくださいといったのは、そんなむつかしい数学のことではありません。つまり、文化生活線上に於けるわれわれ人間は、究極《きゅうきょく》なる未来に於て、如何《いか》なる生活様態《せいかつようたい》をとるであろうか? その答を伺《うかが》いたいと申したのです」
「なんじゃ、もう一度いってくれ。何の呪文《じゅもん》だか、さっぱりわしには通《つう》じない」
「何度でも申しますが、つまり、文化生活線上に於けるわれわれ人間は、究極なる未来に於て、如何なる生活様態をとるものであろうか? どうです。今度は分りましたろう」
「何遍《なんべん》聞いても、分りそうもないわい。結着《けっちゃく》のところ、やがて人類はどんな風な暮し方をするかということなのじゃろう」
「そうですなあ。まず簡単粗雑《かんたんそざつ》にいうと、そういうところですねえ」
「そうか、そんな質問なら、答はわけのないことじゃ。ピポスコラ族と全《まった》く同じようになる。そして一万年か二万年たてば、われわれ人類にはネオピポスコラ族という名前がつくだろうな」
「ははあ。そのピポスコラ族というのは、何ですか。どこにいる民族ですか」
「それは、今わしがいっても、お前はとても信じないと思うから、いうのはよそう」
「博士、それは卑怯《ひきょう》というものです。今までに民族学や人類学はずいぶん勉強しましたが、ピポスコラ族なんてものは聞いたことがありません。博士は出鱈目《でたらめ》をいっていられるのでしょう」
「莫迦《ばか》なことをいっちゃいかん。尤《もっと》も、パルプで慥《こしら》えたあのやすい本なんかには出とりゃせんだろうが、わしは嘘をいっているのではない」
「じゃ説明してください。或いは、私をそのピポスコラ族の前へ連れていってくだすってもかまいません」
「あはははは。うわはははは」
 博士は、なぜか大声をたてて、からからと笑いだして、しばらくは笑いが停《と》まらなかった。そのうちにようやく笑いを停めると、こんどは笑いあきたか、急に熊《くま》の胆《きも》を嘗《な》めたようなむつかしい顔になって、
「では、こうしよう。来る八月八日を第一回目として、それから十年|毎《ごと》の八月八日に、お前はその日の日記を認《したた》めて、わしのところへ送ってきなさい」
「十年毎の間隔《かんかく》は、ちと永いですね」
「そうでもないよ。そうしてお前が、第八回目の手紙を書くようになったときには、お前は否応《いやおう》なしに、ピポスコラ族に出会《であ》った話を書かなければならないだろう。それまでわしは、ピポスコラ族のことも、又それと同じ生活様態になるわれわれ人類のことについても、喋《しゃべ》らないことにする」
「まるでお伽噺《とぎばなし》に出てくる人間の姿をした神様の台辞《せりふ》みたいですね。そんなまどろこしいことをいわないで、早く教えてください、一体われわれが遠き未来において、どんな生活をするかを……」
「云わないといったが最後、この金博士は絶対に云わないのじゃ。この上ぐずぐず云うと、この部屋に赤い霧、青い霧をまきちらすぞ」
「いや、それはお許しねがいたい」
 私は、蟇口を片手でおさえると、脱兎《だっと》のように、博士の研究室を逃げだしたのであった。
 ――以上が、金博士に送った第一回の日記、つまりその年の八月八日の私の日記だったのである。


     2


 第二回目の日記は、それから十年たった十×年八月八日に於ける私の日記であった。これは第一回分のものとは違って、大分《だいぶ》日記風になってきた。以下、これを再録しておく。
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十×年八月八日 晴れ
[#ここで字下げ終わり]
 小便に起きたついでに、明り取りの窓から暁の空を透《す》かしてみると、憎らしいほど霽《は》れ渡《わた》った悪天候である。
 これでは今日も、日本空軍《にっぽんくうぐん》のはげしい爆撃があるだろうと思って憂鬱《ゆううつ》になったとたんに、ぷーっという空襲警報《くうしゅうけいほう》のサイレンであった。
「うわーっ、つまらない予想が当りやがる」
 私は、ぺっと唾をはくと、寝床へとって返した。ベッドの上の衣服と、その脇《わき》に吊《つる》しておいた非常袋を掴《つか》むが早いか、部屋をとびだして、街路を駈《か》けだした。目標の市民防空壕《しみんぼうくうごう》は、五百ヤードの先である。
 息せき切って防空壕に辿《たど》りついたはいいが、ふと手を頸《くび》のところへやってみると、肝腎《かんじん》の入壕証《にゅうごうしょう》がない。しまった。紐《ひも》をつけて頸にかけていたが、途中で切れてしまったらしい。といって引返《ひっかえ》してまごまご探していようものなら、足の早い日本空軍の爆撃機は、私の知らぬうちに頭上へ現れるだろう。
 私は泣き面《つら》に蜂《はち》の体《てい》たらくであった。
「入れてくださいよ。入壕証は、その辺で落として来たんですよ」
「その辺で落として来たんなら、これからいって拾ってくるがいいじゃないか」
「それが……」
 役人は意地悪い顔つきで、私を睨《にら》みつけている。仕様《しよう》がない。なけなしの財布の底をはたくより外《ほか》に途がない。
 私は、非常袋の中へ手を入れて、五千|元《げん》の法幣《ほうへい》を掴《つか》みだした。それをそっと、役人に握らせると、
「今日だけ、一つ頼みます」
「ううん。たった、これだけか。これだけでは……」
「ああ出します。もうこれで身代限《しんだいかぎ》りなんです」
 と、私は更に三千元の法幣を掴みだして、かの役人の手に握らせた。
「よろしい。今度だけ大目に見る。この次は二万元以下じゃ、見のがされんぞ」
「へい」
 私は急いで、役人の腕の下をくぐって、防空壕の中にとびこんだ。すると、ずんずんずんずずーんと、大きな地響が聞えてきた。もう爆撃が始まったのである。ぐずぐずしていると、防空壕の入口が閉ってしまうところであった。
 それが爆撃の皮切りであった。それから、始まって、息をつぐ間もなく、爆裂音《ばくれつおん》が続いた。壕の天井や壁から、ばらばらと土が落ちて、戦《おのの》き犇《ひしめ》きあう避難民衆の頭の上に降った。あっちからもこっちからも、黄色い悲鳴があがる。
 中には、案外くそ落着きに落着いている奴もあるもんだと思ったが、私と肩を摺《す》り合わせている青年がいった。
「あの、どどーんという爆裂音と、あのずしんずしんという地響と、この二つを無くすることが出来ないものかな。あれを聞くと、生命《いのち》が縮《ちぢ》まる」
「それは無理だと思うね。この重慶《じゅうけい》にいる限り、どうも仕様がないよ」
 と私はいった。
「いや、私はまだ対策があると思うんだ。もっと防空壕を深く掘るとか、出入口の扉《ドア》を三重四重にするとか、政府が努力するつもりなら、もっといい防空壕が出来る筈だ。そう思いませんか」
「それはそうだね」と私は青年にさからわぬよう相槌《あいづち》をうった。
「とにかくわれわれは、世界中で最も勝《すぐ》れた市民だということを忘れてはいかん」
 青年の話が急にかわった。
「え、どうして?」
「え、だってそうだろうが。世界中で、われわれほど毎日のように猛爆をうけている市民はいない。従って、われわれほど、すぐれた防空施設を持ち、且《か》つ防空精神力を持った人間はどこにもいないというわけだ。つまり我々は、日本空軍のおかげで、世界一の防空文化人なんだ。そうでしょうが」
「あ、なるほど、なるほど。しかし、ずいぶん長期戦が続くものですなあ。もういい加減、日本空軍が鉄に困って木製《もくせい》や泥製《どろせい》の爆弾を落としてもいい頃だと思うんだが、相変らず鉄の爆弾を落としとるですが、敵もさるものですなあ」
「いや。もう今日の爆撃あたりには、木製の爆弾を使っているのかもしれないよ」
「でも、木製爆弾なら、あんな逞《たくま》しい音はしないでしょう」
「そうだね。今日の爆弾は音が、悪い……」
 といっているとき、大きな音響と共に、目の前が火の海になったかと思ったら、私はそのまま気を失ってしまった。……
 今日の日記はこれでおしまいである。なぜなれば、私が気がついたのは、その翌朝《よくあさ》のことであったから、今日の日記としては、気を失ってしまった点々々というところで終りなのである。


     3


 金博士へ送る第三回目の日記。
 前の日記から、また十年たったのである。
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二十×年八月八日 晴れ
[#ここで字下げ終わり]
 ラジオは、今朝は空が晴れているとアナウンスした。十年前のころは、夜が明けて、空が晴れていると、空襲があるという予想から、晴天《せいてん》を恨《うら》んだものである。この頃は、晴れていようが、曇っていようが、どっちでも大した差違《さい》はない。どんな日でも、飛行機はとんで来て、正確に爆撃をしていくのだから。
 しかしこの頃のように、われわれ市民は、地下へ潜《もぐ》
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