ウという微《かす》かな音をたてて消えてしまった。それだけのことであった。別に爆発物の破裂しそうな煙硝《えんしょう》の匂いもしなかったし、イペリット瓦斯《ガス》の悪臭も感じられなかった。座中の或る者が、
「唯今《ただいま》、私が給仕を呼びますから」と言ったので一同は子供のように立騒ぎはしなかったが、いずれも内心の不安をかくすことが出来なかった。声をかけた人は、そろりそろりと扉《ドア》の方に近づいて行った。やがて扉に手が触れたので、両手を上下左右に伸ばしながら把手《ハンドル》の在所《ざいしょ》を探しもとめた。把手はあった。彼氏はその把手を握ってギュッと廻すと、外へ押したが、どうしたわけか扉は開かない。そんなわけはないと思って更に一生懸命押してみたが、今度はなんだか腕が痺《しび》れてくるようで力が入らなかった。そのうちに頭が割れるように痛み出し、胸がひきしぼられるように苦しくなってきた。
「やややられたッ。扉が、あああかない」と叫びながら、扉を滅多うちに叩きつけた。暗黒の室内のあちらこちらでは、獣《けもの》のような絶望的な叫び声が起り、うんうんと呻吟《しんぎん》する声がだんだん高くなって行った。室外では、今、松ヶ谷学士が扉に身体をうちつけている。刑事や警官が扉の前に走《は》せ集って来た。扉はドーンと開く。松ヶ谷学士は先頭になって飛び込んだ。
「灯《あかり》を、灯を」
 と叫ぶ警官がある。今入ったばかりの松ヶ谷学士がよろよろと入口へよろめき出て来ると、パタリと其儘《そのまま》斃《たお》れた。惨劇《さんげき》の室の前に集った人の中から、マスクをかけた長身の男が飛び出して、
「毒瓦斯だ! 入ってはいけない」と叫んだ。彼は腰をかがめると、入口に斃《たお》れている松ヶ谷学士を肩に担《かつ》ぐと、ドンドン階段の方へ駈け出して行った。そのとき、便所から帰って来た鬼村博士が、この騒ぎに驚いて、博士に似合わぬ狼狽《ろうばい》ぶりを見せて、室内に飛込もうとしたが、それは警官が二人がかりで抱きついて、やっと止めることができたのであった。
 鬼村博士を除く十六名の学会長は、悉《ことごと》く枕を並べて無惨なる最後をとげてしまった。鬼村博士が、偶然にも唯一人助かったことは、不幸中の幸《さいわい》であると、各新聞紙は悲壮な空元気《からげんき》の社説を掲《かか》げた。だが、当夜の不思議な毒瓦斯電球を、誰が装置したのであるか、また入口の扉は誰が鍵をかけたのであるかについては、各紙は一行の報道もしていなかった。現場から行方不明となった松ヶ谷学士には、すくなからぬ嫌疑《けんぎ》がかけられていたが、その生死のほどについては知る人が無かったのである。

  5

 惨劇《さんげき》は、満都の恐怖をひきおこすと共に、当局に対する囂々《ごうごう》たる非難が捲き起った。「科学者を保護せよ、犯人を即刻逮捕せよ」と天下の与論《よろん》は嵐の如くにはげしかった。
 惨劇のあった翌日、秘密裡《ひみつり》に、日本化学会の幹部二十三名が、学士会館の一室で会合した。会場は言うに及ばず、会館内の隅々まで、電球や電熱器をはじめ、館内に在るありとあらゆるものが厳重な検査をせられたのち、内外に私服警官隊の網をつくり、それこそ一匹の蟻のぬけ出る道もない迄に、警戒せられたのであった。その会合は、午後七時となって、やっと開催せられた。勿論《もちろん》この会合には、昨夜の惨劇から幸運にものがれた鬼村博士が座長席にすわって、「毒|瓦斯《ガス》犯人についての意見」を交換し合い、これに対抗する具体的手段を考案せられんことを希望した。一座は、それこそ、我国に於ける化学界の至宝《しほう》と認められる学者たちばかりであった。この会合で、充分効果のある具体的方法を考え出さない限り、当分はいかなるこの種の会合も危険で出来ないのであった。一座はそれについて重大なる責任を思いながらも、昨日の惨劇におびえ切って兎角《とかく》、議案にまとまりがつかない様子であった。一座の中には、鬼村博士の命拾いまでを神経に病んで若しこの席から博士が立つようであれば、直《す》ぐ様《さま》その後を追って室外に出なければ危険であると考え、博士の行動にばかり気をとられている人もあった。
「椋島君は、見えないようですね」と訊《き》いた人がある。
「椋島君は、来ると言っていましたが、どうしたものかまだ見えません。いや、いずれその内やって来ますよ」
 と鬼村博士が答えた。
「椋島君は、鬼村さんの御令嬢が昨日家出されたので、それで忙しいらしいですよ」と隣りの化学者が囁《ささや》いた。
「だが、今日の問題は、国家の興廃《こうはい》に関する重大事項じゃありませんか」
「それに違いありませんが、この道ばかりは何とやら云いますからね」
 その噂にのぼった椋島技師は、鬼村博士の言葉のとおりに、実は既にこの学士会館に到着しているのであった。だが彼は、どうしたものか、コック部屋にいるのであった。前の日|留吉《とめきち》に借りた妙ないでたちの上に、白いエプロンをぶら下げ、白いキッチン・キャップを被《かぶ》っていた。どうやら留吉の紹介でこのコック部屋へ這入《はい》りこんだものらしい。それはどこからみても、コックでしかなかった。椋島は料理の方には眼も呉《く》れず、部屋の片隅にある妙な道具の蔭に頭をつき込んでいる。その道具のことを説明すれば彼氏の奇怪な行動がわかるのであるが、それはプリズムとレンズとからなる反射鏡で、その器体はコック部屋から、換気洞《かんきどう》を上の方に匍《は》いあがり、果然《かぜん》、日本化学会の会合のある室に届いているのである。また彼の側にある特設電話器の延びて行く先を辿《たど》ってゆくならば、例の会合のある三階の窓際にある衝立《ついたて》の蔭に達しているのを発見するであろう。そればかりではない、その衝立のうちには、洋装の給仕女が控えていて、時々ぬからぬ顔をしてはその衝立から顔を出し、会合のある部屋の扉に注目しているのを発見するであろう。いや、それがバア・ローレライのおキミであることも既に発見せられているであろう。
 さて椋島技師ののぞいている望遠鏡には一体何が映っているのであろうか。そこには、例の会合室の正面に座っている鬼村博士の全身がクッキリと映し出されているではないか。椋島技師は、博士の挙動《きょどう》を静かに注目している。博士は今、何か喋《しゃべ》っているらしく口を開閉している。やがて一礼をして席についた。博士の右手が、スルリと伸びて、衣嚢《ポケット》の時計にかかった。博士は、秒針の動きを、じっと眺めている様子である。椋島技師は、ゴクリと唾《つば》をのみこんだ。博士は時計を握ったまま、顔を正面に立てなおした。そのとき博士のとなりに居るK大学の昌木《まさき》教授が何事か博士に向って尋ねているようである。博士は、じいと正面を向いた儘《まま》答えない。昌木教授は、すこし苛々《いらいら》した面持《おももち》になって来て、卓を叩いてワンワン詰め寄るかのように見えた。他から人が立って来て昌木教授をなだめている様子だ。しかし博士は黙《もく》して語らない。
 ところが其の時である。果然《かぜん》、昌木教授の表情が変って来た。昌木教授をなだめている人も、嫌《いや》な顔付にかわった。
「シ、しまった!」叫んだのは椋島技師である。反射鏡から飛びのくと、傍《そば》の電話器をつかんで、自棄《やけ》に信号をした。
「キミちゃん。早く信号しろ!」
 そう言ったかと思うと、椋島技師は、気が変になったようになってコック部屋を飛び出した。
 おキミは、素早《すばや》く側の窓を開くと、窓の下に腰をかがめ、右手を水車《みずぐるま》のように廻すと、何か黒いものをパッと窓外になげた。なにか街路の上で爆発するらしい音がして、スーウと青い光が閃《ひらめ》いた。パンパンと音がして、ヒューッと銃丸《じゅうがん》が窓外《そうがい》から、おキミの頭をかすめて衝立にピチピチと当った。そのとき遅《おそ》し、例の会合のある室の大きな硝子《ガラス》窓が、バシーン、ガラガラというすさまじい音響をたてて壊《こわ》れ始めた。何だか真黒な大きいものが、あとからあとへと硝子窓に飛んできては、硝子という硝子を悉《ことごと》く壊《こわ》してしまった。例の室内は硝子の破片がバラバラと雨のように降った。硝子の雨を浴びた一座のものは奇声をあげているばかりで、逃げ出そうとする気配《けはい》はなかった。どうやら、その前に、一同は毒|瓦斯《ガス》に幾分あてられているかのように、その場にグッタリと身体をのばしていた。硝子の破片で傷ついているものもあるようであったが、別に痛そうな顔をしていないのは、中毒作用のせいであろうと思われる。唯一人の例外は、鬼村博士であった。博士だけは、直立して、柱の蔭に硝子の雨を避けていた。警官連中は入口の扉を開きはしたが近寄れないので、どうしたものかと犇《ひしめ》き合《あ》っていた。
 そのところへ、いきなり飛び上って来た怪漢がある。警官が取押《とりおさ》えようとする手をはらいのけて、勇敢にも室内へ躍り込んだが柱のかげにひそんでいる鬼村博士の姿を目懸《めが》けて飛びかかって行った。博士は悲鳴をあげて救いを求めた。怪漢は、博士の顔を床の上におしつけると、博士の大きな鼻をねじり廻して、何だか綿のような白いものを、指先で抜きとったようであった。それはどうやら特種《とくしゅ》の薬品を浸みこませた濾気器《ろきき》で、博士が唯一人毒瓦斯に耐《こら》えていたのも、そのせいであるかのように思われた。そこへ警官連中が上から折重って怪漢をひきはなし、高手小手《たかてこて》に縛りあげてしまった。
 博士は身震いして、ヨロヨロと立ち上ったが、そこに引きすえられた怪漢の顔を見ると、
「椋島君、お気の毒じゃな」と、薄気味のわるい笑顔をズッと近付けた。
 翌朝の新聞紙は、一斉に特初号活字、全段ぬきという途方もない大きな見出しで、「希代の科学者|鏖殺《おうさつ》犯人|遂《つい》に捕縛《ほばく》せられる。犯人は我国毒|瓦斯《ガス》学の権威椋島才一郎」などと、昨夜の大事件を書きたて、彼の現場に於ける奇怪な行動や、精密な機械類の写真などが載った。帝都は鼎《かなえ》の湧《わ》くがように騒ぎ立ち、椋島が収容せられたという市ヶ谷刑務所へは、「椋島を国民に引渡せ」というリンチ隊が、あとからあとへと、入りかわり立ちかわり押しかけては、時代逆行の珍現象を呈した。それを鎮撫《ちんぶ》するのに、陸軍大臣に麻布《あざぶ》第三連隊に総動員を命ずるという前代未聞の大騒ぎが起ったのであった。
 しかし、新聞紙面には、曩《さき》に行方不明になった松ヶ谷学士や、家出をした鬼村真弓子のことについては、一行も報道していなかったばかりではなく、昨夜、活躍したおキミの消息も、それから又おキミの信号により、硝子窓の破壊に従事した人物についても、何の報道もしていなかった。

  6

 それから約一ヶ月の月日が流れた。
 あの事件を最後の幕として、科学者虐殺事件は其後《そのご》まったく起らなくなった。椋島技師の犯行は、愈々《いよいよ》明白となって死刑の判決が下り、その刑日《けいび》もいよいよ数日のちに近付いた。世間は、反動的に静かになり、東京市民は、めっきり暖くなった来《く》る朝|来《く》る朝を、長々しい欠伸《あくび》まじりで礼讃《らいさん》しあった。
 鬼村博士は、どの市民よりも、ずっとずっと早くから、あの凄惨《せいさん》きわまる事件を忘れてしまったかのような面持で、何十年一日の如き足どりで化学研究所に通い、実験室に、立籠《たてこも》っていた。研究所の入口で出勤札《しゅっきんふだ》を返す手つきも同じなら、帽子を被ったまま、何時間となく室内をグルグル歩きまわる癖《くせ》も、全く前と同じことであった。
 しかし、仔細《しさい》に誠を知り給う神の眼には、博士一味の行動こそは、その後、いよいよ出でて、いよいよ怪《け》しからぬものがあることがよく映っていたことであろう。実に博士こそは剣山
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