線は、現に帝都の中に歴然と横たわっているのです。
しかも敵影《てきえい》は巧《たく》みにカムフラージュされて、我々はその覘《ねら》いどころが見付からないのです。で先刻《せんこく》申しあげたように、あなたの御尽力《ごじんりょく》を乞いたいわけです。国家のために、敢《あ》えてあなたの御生命の提供を御願いしたい」
「だが、閣下のおっしゃることは、余りに空想すぎるのじゃありませんですか」と椋島技師は幾分苦笑を禁じ得ないという面持《おももち》で云った。「いくら日本人が堕落《だらく》をしていたって、要路《ようろ》の高官とか、其《そ》の道の権威とか言われる連中が、そうむざむざ敵国の云うことをきくわけはないじゃありませんか」
「そういうことを今あなたと議論しようとは思いません。それは、わが陸軍の探知し得た信用の出来る情報です。だが、考えても御覧なさい。×国は三十年も前から仮想敵国《かそうてきこく》として我国を睨《にら》んでいるのです。あらゆる術策《じゅつさく》が我国に施《ほどこ》されてある中に、最も陰険《いんけん》きわまるのはこの国際殺人団の本体であるところのJPC秘密結社です。×国は三十年前から各方面に亘って有望なる学才を有し、しかも貧乏だとか、孤児《こじ》だとか云う恵まれていない人物を探し出して、これに莫大な資金を送り、その人物が立身出世をするように極力宣伝し、遂に今日我国の要路要路の実権を彼等の手に握るようにまで後援したのです。×国の参謀本部の命令一下、彼等×探は、いやが応でもその命令を決行しなければならないのです。若《も》しそれに肯《がえ》んじなかったら、その男を国事犯で絞首台に送りでも、又、殺人隊をやって絶対秘密裡に暗殺してしまいでも、どうでも自由になるのです。彼等が始めて苦しいジレンマを意識したときには、その行く道は自殺があるばかりです。某博士の自殺、某公使の自殺、某中佐の自殺、それ等、原因のはっきりしない自殺は、皆ここに源があるのです。これだけ申せば、国際殺人団の活躍が如何に必然的なものであり、決死的なものであるか御判りになったでしょう」
「いや、よく判りました。それ以上は、おたずねいたしますまい。またこの御依頼にNO《ノー》と答えたくても、即座に私の命のなくなることを思えば、YES《イエス》と申して置くのがなによりであることも判っています。だが、私に大役《たいやく》をお委《まか》せになっても、若し私自身が、その結社の一員だったら、閣下は一体どうなさる御考えですか」
「どうも貴方は中々いたいところを御つきになりますね。しかし御安心下さい。その御念には及びません。いくらでも善処すべきみちが作ってありますから」
この場面があって、椋島技師は、国際殺人団の探索《たんさく》に当るために、剣山陸軍大臣直属のスパイを任命された。彼はそのために、如何なる場合もこの目的のために一命を抛《なげ》うって努力すること、このスパイたることは、絶対に他人に洩《も》[#底本のルビは「もら」と誤記、175−上段−4]らしてはならぬのみか、同志であるものを発見したときと雖《いえど》も、その事情を明かし合ってはならぬこと、但《ただ》しスパイをつとめるについて、事情をあかすことがないのであれば、助手を使ってもさしつかえないことなどと、厳しい注意をこまごまとうけたのであった。
「誓って、祖国のために!」椋島技師は、燃えるような眼眸《がんぼう》を大臣の方に向けて立ちあがると、こう叫んで、右手をつとのばした。
「天祐《てんゆう》を祈りますよ、椋島さん」大臣の幅の広いガッシリした掌《て》がギュッと、椋島技師の手を握りかえした。
3
椋島《むくじま》技師は大臣のさし廻してくれた幌《ほろ》深《ふか》い自動車の中に身を抛《な》げこむと、始めて晴々しい笑顔をつくった。右手でポケットの内側をソッとおさえたのは、いましがた大臣から手渡された莫大な紙幣束《さつたば》を気にしたためであろう。
さてそれからはじまった椋島技師の行動こそは、奇怪《きかい》至極《しごく》のものであった。
彼は、大臣からさしまわされた自動車を、銀座街《ぎんざがい》にむけさせた。尾張町《おわりちょう》の角を左に曲って、ややしばらく大道《だいどう》を走ると、とある横町を右に入って、それからまた狭い小路を左の方へ折れ、やがて一軒のカフェの前に車を止めさせた。そこは、悪性《あくせい》な銀座裏のカフェの中でも、とかく噂の高いエロ・サービスで知られたバア・ローレライであった。椋島技師は、午前十時のバアの扉《ドア》を無雑作に開くと、ツカツカと奥へ通り、そこに二階に向ってかけられた狭い急勾配《きゅうこうばい》の梯子段《はしごだん》の下に靴をぬぎとばすと、スルスルと昇って行った。二階は真暗であった。ムンと若い女の体臭が鼻をつく。
「キミちゃん居るかい」彼は暗中《あんちゅう》に声をかけた。
「ああ、ムーさんだわね、向うから二番目に、キミちゃん、まだ寝ているわ」と女給頭のお富が彼の膝頭《ひざがしら》の辺から頓狂《とんきょう》な声をあげた。
「そうか。僕は二時頃まで、ちょいと寝たいんだ、あとからウンと奢《おご》ってやるから大目《おおめ》に見るんだぜ。それからお富|姐御《あねご》すまないけれど、その時間になったら、コックの留公に用が出来るんだから、どこにも行かずに待たせて置いとくれ。もう二時まで、なんにも口をきかないからな、話しかけても駄目だぜ」
云いたいことを云ってしまうと、彼はオーバーを脱いだり、バンドをゆるめたりして、イキナリ、おキミの寝床にもぐり込《こ》んだ。ぼそぼそと、しばらくは小声《こごえ》で話し合っているらしかったが、やがておキミは寝床から出て行って、あとには椋島一人が、何か考え悩んでいるものか、転輾反側《てんてんはんそく》している様子だった。こうして時計は、いく度か同じ空間を廻ってやがて午後二時を報ずるボーン、ボーンという眠そうな音が階下《した》からきこえて来た。それがキッカケでもあるかのように、おキミがおこしに上って来た。
椋島とおキミとコックの留吉との三人が外出の仕度をして店の方に出て来たのは、それから一時間ほど経ってのちのことである。
「まア、仮装《かそう》舞踊会《ぶようかい》へでもいらっしゃるの」
「ムーさん、勇敢な恰好ねえ」
などと、ウェイトレス連が囃《はや》したてた。たしかにそれは不思議な組合わせであった。留吉はシャンとした背広に、黒い喋《ちょう》ネクタイをしめて紳士になりすましていたし、おキミはどこで借りて来たのか、三越の食堂ガールがつけているような裾《すそ》のみじかいセルの洋服をきて年齢が三つ四つも若くなっていたし、椋島は椋島で、留吉の衣裳を借りたらしく、コールテンのズボンに、スェーターを頭から被ったという失業者姿であった。
三人は、まぶしいペイブメントのうえへ飛び出した。三人が列をそろえて一列横隊で歩き出したところへ、横丁《よこちょう》から不意にとび出して来た若い婦人がドンと留吉にぶつかりそうになった。
「ごめん、あそばせ」と婦人は豊かな白い頬をサッと桃色に染めながら言って、チラリと一行を見たが、
「呀《あ》ッ」と小さい叫声をたてた。この婦人は鬼村博士の一人娘の真弓子《まゆみこ》にちがいなかった。無論彼女は、いち早く、椋島の姿をみとめたのである。だがその異様《いよう》ないでたちの彼を何と思って眺めたであろうか、スカートの短いところでカムフラージュされるとしても、生憎《あいにく》彼にしなだれかかっていたコケットのおキミを見落《みおと》す筈《はず》はなかった。これに対して、椋島は遂《つい》に一言も声を出さなかったし、むしろ顔をそむけたほどであった。しかし、何《ど》うやら気になるものと見えて、真弓子の行く後を振りかえった。彼は真弓子がこちらを振りむいたのを見て慌《あわ》てて頭を立てなおした。
4
其の夜の六時、電気協会ビルディングの三階第十号室には我国の科学方面に於けるさまざまな学会の会長連が、円卓《えんたく》を囲んでずらりと並んでいた。その人数は十七名もあろうか。電気学会長である帝大工学部長の川山博士の白頭《はくとう》や、珍らしく背広を着用に及んでいる白皙《はくせき》長身《ちょうしん》の海軍技術本部長の蓑浦《みのうら》中将や、テレヴィジョンで有名なW大学の工学部主任教授の土佐博士の丸い童顔や、それからそれへと、我国科学界の最高権威を残りなく数えることができるのであった。勿論《もちろん》、その座長席には鬼村博士のやや薄くなった大きな頭がみえていた。
会合は、科学協会としての例月の打合わせ会であったのであるが、議事が一ととおり済《す》んでしまうと、鬼村博士が、やおら、ずんぐりと太い身体をおこして立った。
「みなさん、例月議事は、これで終了いたしましたが、次に是非みなさんの御智恵を拝借したいことがあります。御承知でもありましょうが、近来どうしたものか、われわれ科学者仲間におきまして、不測《ふそく》の災害に斃《たお》れるものが少くない、いや、寧《むし》ろ甚だ多いと申す方がよろしいようであります。これにつきまして、この頃では、さまざまの臆説《おくせつ》が唱えられて居るようでありまして、中には、これは科学者に共通な悪運が廻って来たものだと申し、或る者は殺人魔の跳梁《ちょうりょう》であると申し、また或る者は偶然災害が続くものであって決して原因のあるものではないと反駁《はんばく》をいたしておるようなわけであります。私個人の考えといたしましては、どうも気が変になった犯人のなせるわざであると考えて居るのでありまするが、それが如何なる人物であるか、探偵でもありませんのでつきとめては居りませぬが、どうも一《ひ》と筋縄《すじなわ》や二《ふた》筋縄で行かぬ人物であり、しかもその犯人は相当インテリゲンチャであると思うのであります。それで吾人《ごじん》は充分、警戒をする必要があると考えます。殊に今日迄の災害の後をふりかえってみますに、いずれも会合の席を覘《ねら》って居るようでありまして、今後、私共科学者の集会はなるべく控えるか、または極力秘密な場所に開き、尚《なお》これに官憲の保護を得るようにつとめたいと考えますが、かように私の御警告申上げることについてみなさんは、或いは異説をおもちかと存じ、今度は充分御対論を願いたく尚《なお》警戒法について御心付の点をお話し願いたい。現に今夜のこの会合の如き、最も鏖殺《おうさつ》し甲斐《がい》のあるものでございますが、いままでなんともないところをみると、或いは遂になんでもないかもしれないのでありまするが、或いは又、これから爆弾が降ってくるかもしれないのでございます。いやそれは冗談でありまして、実は私の老婆心から、本会場は既に厳重な警視庁の警戒でとりまいてございますから、どうぞ御安心をねがいます」と博士はニヤニヤと両頬に笑《え》みをうかべながら諧謔《かいぎゃく》を弄《ろう》して着座したので、最初のうちは顔色をかえた会員も、哄笑《こうしょう》に恐怖をふきとばし、一座は和《なごや》かな空気にかえった。一旦席についた博士は衣嚢《かくし》から金時計を出してみたあとで一座の顔をみわたしたが、「どうぞ御意見を……」と言った。そして急に立ちあがって「ちょっと便所へ……」と隣席の川山博士に耳うちをすると、席を立った。そして入口の扉《ドア》をあけて室外に出ると、
「先生、なにも変ったことは御座いません」と、今夜の警戒の第一線に自ら進んで立っていた松ヶ谷学士が、いきなり博士に顔を合わせて、こう囁《ささや》いた。
「わしは便所へ行って来る、よろしく頼むぞ」博士は、例の調子で呻《うめ》くように言うと、そろりそろりと便所のある方へと足どりを搬《はこ》んで行った。会合室内では蓑浦中将が立って、
「唯今、協会長の御説明のあった最近の奇怪なる事件につきまして、私の……」と、そこまで話をすすめて来たときに、どうしたものか、グローブの中の電燈が、急に二倍もの明さに輝いたかとみる間に、スー
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