《つるぎやま》陸軍大臣が、かつて椋島技師にスパイを命じたときに語ってきかせた国際殺人団の団長であったのだ。その下に集る団員は、博士の命令で、あの事件以来ピタリと鳴りを鎮《しず》め、その代り、新《あらた》に恐ろしき第二期計画に着々として準備を急いでいた。博士は、多数の権威を喪《うしな》った我国の科学界の王座に直って、あらゆる機関を手足の如くに利用していた。殊《こと》に博士が所長を勤める研究所にあっては、所外不出《しょがいふしゅつ》ではあるが極秘裡《ごくひり》に、数々の恐ろしい実験がくりかえされていた。たとえば、その一つの部屋を窺《うかが》ってみるならば、大きな金網《かなあみ》の中に百匹ずつ位のモルモットを入れ、これを実験室の中に置き、技師たちは皆外へ出た上で、室外から弁《べん》を開いて室内へ、さまざまの毒|瓦斯《ガス》を送り、モルモットの苦悩の有様や、死に行くスピードなどを、部厚な硝子窓からのぞきこんでは観測するのであった。こうして色々な毒瓦斯が研究されはしたが、結局、前に椋島技師が発明して残して行ったフォルデリヒト瓦斯《ガス》に及ぶ強力な毒瓦斯はなかった。これは非常に濃厚なもので、適当な精製法を経《へ》ると、三間四方の室なら五c.c.のフォルデリヒト瓦斯で、充分殺人の目的を達するようであった。博士は最近、この毒瓦斯の精製法に成功したのであった。
博士は其の日の午後、近くにせまる陰謀の計画をチェックしていた。すると、博士の愛するロボットは、珍客の案内を報じたのであった。博士はその密室を出て、広間の扉を開いた。そこには、この一ヶ月というものの間、全く生死不明を伝えられていた松ヶ谷学士が、おどおどした眼付で立っていた。
「松ヶ谷君か。君、どうしていたんだ」と博士は機嫌がよかった。
「ハイ、それは追々《おいおい》御話し申上げる心算《つもり》でございます」
と松ヶ谷学士は言って、口をつぐんだ儘《まま》、やや躊躇《ちゅうちょ》している風だったが、強いて元気をふるいおこす様子で、
「先生、実は、……申上《もうしあ》げ憎《にく》いので御座いますが、わたくし、お嬢様のお使いに本日参上いたしましたのですが……」
「ほう、真弓の使いというのか」博士は冷く言い放った。「遠慮《えんりょ》なくここへ連れてくればよいではないか」
「それが、どうしても先生に、所外まで御出《おい》で願いたいということなんで、実は、いろいろ入組《いりく》んだ事情もございまして、所内へ入るのは嫌《いや》だと仰有《おっしゃ》いますのですが……」
「よし、行ってやろう」と博士は、何を考えたか機嫌よく立ちあがった。
真弓子は、研究所から鳥渡《ちょっと》はなれた森の中に待っていた。彼女は、松ヶ谷学士が運転して来た自動車の中に、身うごきもせずに待っていた。彼女の相貌《そうぼう》は、この一ヶ月の間に、森華明《もりかめい》の描《えが》いた小野小町《おののこまち》美人九相の図を大急ぎで移って行ったように変りはてていた。額《ひたい》は高く、眼窩《めくぼ》は大きく、眼にはもう光がなかった。蒼白《そうはく》の頬、灰色の唇、すべて生きている人間のものではなかったのである。彼女は、椋島に捨てられたものと思い懊惱《おうのう》の果《はて》、家出をしたのであったが、電気協会ビル事件のとき、思いがけなく椋島のために一命を救われ、その翌日は其の助手となって学士会館の硝子窓破壊係をつとめてその夜の犠牲《ぎせい》を少くすることに成功した松ヶ谷学士に探し出されて、椋島の誠意を伝えられたが、それは遂に好意であって得恋《とくれん》ではなかった。其内《そのうち》に識《し》るともなく父鬼村博士の陰謀に気付き、夜に昼を継《つ》いで歎《なげ》きかなしんだため、到頭《とうとう》ひどく身体を壊してしまった。だが、椋島技師の死刑が近いと聞いたので、彼女は片恋《かたこい》ながら、なにをおいても椋島を救いたく思い、それには、父博士によって、椋島技師の行状《ぎょうじょう》を有利に証言して貰うことができれば、必ず彼女の思いはとどくものと信じ、こうして生と死の境を彷徨《ほうこう》する身体をここまで搬《はこ》んできたのであった。
彼女の傍に立った鬼村博士は、急ににがりきった顔付になって、真弓子の痛々しい姿に、一言の憐憫《れんびん》の言葉もかけはしなかった。彼女は、いくたびかはげしく咳《せ》きいりながら、虫のような声でくりかえしくりかえし歎願し、椋島の助命を頼んだのであった。しかし父博士は一言も口を開かなかった。が真弓子が絶望のあまり、泣き声も絶《た》えてその場に気を失ったとき博士は始めて口をきいた。
「松ヶ谷君、悪魔のしのび笑いを耳にしないかね!」
二発の銃丸が、消音|短銃《ピストル》のこととて、音もなく博士の手から松ヶ谷学士と真弓子の脇腹に飛んだ――
「とんだことに、永く手間どらせた哩《わい》」と博士は呟《つぶや》きながら後を再びふりむこうともせず、そろそろと研究所の方へ引きかえして行った。それは博士の退所時間三十分も過ぎていた。博士は、門をくぐり、ペイブメントをとおり、いくつかの会社のビルディングの蔭に行き、研究所の扉を押してスーウと内に入った。名札《なふだ》をかえすと、スタスタと実験室の中に入って行った。そのとき、別な廊下から、白い実験衣をきた一人の技師があらわれた。彼氏は、そこの壁にかかっていた研究所員の名札を見まわした。
「所長室はあいているようだから」と、今し方、鬼村博士が習慣的にかえして行ったために、「不在」をあらわす赤字の札になっているのを指《さ》しながら彼氏はあとから顔を出した助手に云った。「今試作した毒瓦斯は、直ぐ所長室へ送りこむんだ。そして一時間置きに、気圧計《プレッシュア・ゲージ》を読むんだぜ」
「じゃ、今送ります。時間がよろしいようですから。――弁《バルブ》をみんな開いて七百八十五ミリになりました」
「オウ・ケー」
* * *
完全で、正確この上なしの頭脳を持っている筈の鬼村博士はまことにつまらない、錯覚《さっかく》のために不慮《ふりょ》の最後を遂《と》げた。国際殺人団全体にその飛報が伝わると団員一同は色を失った。それも無理のない話で、博士の企《くわだ》てた第二期計画の日は、実にその翌日の暁《あかつき》かけて決行されるのであったから。
それは何?
翌日の早暁《そうぎょう》、帝都の西郊《せいこう》から毒|瓦斯《ガス》フォルデリヒトを撒《ま》きちらし、西風《せいふう》にこれを吹き送らせて全市民を殺戮《さつりく》しつくそうという、前代未聞の計画であった。彼等は十三台の飛行機にそれぞれ分乗して、午前三時というに、根拠地を離れて午前四時を十五分過ぎる頃あい、予定どおりに今や眠りから醒《さ》めようとしている帝都の上空を襲来《しゅうらい》した。十三台の殺人団機は翼をそろえて南にとび、機体の後部から猛毒フォルデリヒト瓦斯を濛々《もうもう》と吐《は》き出《だ》した。その十三|條《すじ》の尾がむくむくと太くなり、段々と地上に近づいて来たとき、北方の空から、突如《とつじょ》として二隊の快速力を持った戦闘機があらわれ、一隊は殺人団機の後をグングン追いついて行った。他の一隊は、今や帝都の上に垂《た》れ下《さが》ろうとする毒瓦斯の煙幕《えんまく》よりは、更に風上に、薄紅《うすあか》い虹《にじ》のような瓦斯を物凄《ものすご》くまきちらして行った。それは椋島《むくじま》技師が陸軍大臣と打合わせた手筈《てはず》により、投獄と世間を偽《いつわ》って実は密《ひそ》かに某所《ぼうしょ》で作りあげたフォルデリヒト解毒《げどく》瓦斯であった。勿論、その一隊の誘導機上には、もう死刑執行の日も近い筈の椋島技師のいとも晴やかな笑顔があった。
底本:「海野十三全集 第1巻」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1931(昭和6)年5月号
入力:田浦亜矢子
校正:もりみつじゅんじ
2001年12月3日公開
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