減に、物静かな足どりをはこんでゆく紳士がある。茶色のソフト帽子の下に強度の近眼鏡《きんがんきょう》があって、その部厚なレンズの奥にキラリと光る小さな眼の行方《ゆくえ》は、ペイブメントの上に落ちているようではあるが、そのペイブメントの上を見ているのではないことは、その上に落ちていたバナナの皮を無雑作《むぞうさ》に踏みつけたのをみていても知れる。バナナの皮を踏んだものは、大抵《たいてい》ツルリと滑べることになっているが、この紳士もその例に洩《も》れずツルリと滑ったのであるが、尻餅《しりもち》をつく醜態《しゅうたい》も演ぜずに、まるでスケートをするかのように、鮮《あざや》かに太った身体を前方に滑《すべ》らせて、バナナの皮に一と目も呉《く》れないばかりか、バナナの皮を踏んだことにも気がつかないようにみえた。そこで紳士は、急に進路を左に曲げて、ある大きな石の門をくぐって入った。守衛が敬礼をすると、紳士は、別にその方を振りむいてもみないのに、鮮《あざや》かに礼を返したが、その視線は、更に路面の上から離れなかった。軽く帽子をとったところをみると、前頂《ぜんちょう》の髪が可《か》なり、薄くなっている。
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