エネルギーを費《ついや》すことなしに、いとも正確にすすめられてゆくという風に見えた。
 作者《わたくし》は、たいへん詰らない鬼村博士のスナップを、意味もなくだらだらと諸君の前に拡げたようであるが、これこそは最も意味のある大切なスナップなのであることは、頁《ページ》を追ってゆくに従ってお判りになろうと思う。とにかく、このスナップに現われたる鬼村博士の調子は、実に博士の性格の全部をものがたるものと云ってよい。博士はこの極東科学株式会社化学研究所長として令名《れいめい》があるばかりではなく、「日本のニュートン」と世界各国から讃辞《さんじ》を呈せられるほどの大科学者で、日本科学協会々長の栄誉を担《にな》っているばかりか、英国のローヤル・ソサエティーの名誉会長であり、米国のスミゾニアン・インステチュートの名誉顧問であり、独国のテクニッシェ・ライヒサンスタルトの名誉研究員であり、1940年に東京で開かれる万国工業会議には副総裁に任ぜられることに決定している。「日本の工業立国は鬼村博士によって完成されるであろう」といわれている。
 鬼村博士のする事には無駄がない。その優秀な頭脳は各学会に、さまざまのすばらしい研究問題をあたえて、日本|否《いな》世界の科学界を面目一新させようとしている。博士自身も、この研究所に自《みずか》ら一分科を担任して、終日《しゅうじつ》試験管やレトルトの側《そば》をはなれない。その研究題目は「化学による生物の人造法」というのである。外の学者が五十年かかるところを、博士は十年で成績をあげている。
「開け、ごま[#「ごま」に傍点]の実」と廊下を飛ぶようにやって来て、博士の扉《ドア》の前に立った白い実験衣の小柄の青年学者が大きな声で叫んだ。
「どなたですか?」と内側から博士の扉の番をするロボットがやさしい婦人の声を出して訊《き》いた。
「松《まつ》ヶ谷《や》研究員です」
 すると扉が開いた。若い松ヶ谷学士[#「学士」は底本では「博士」、172−上段−8]は、全身に興奮を乗せて躍《おど》りこむように所長室にすべりこんだ。
「先生、今朝の新聞をごらんになりましたか」
「これから見るところじゃ」と鬼村所長は答えた。博士は先刻《さっき》のペデストリアンと同じ姿勢をして静かに室内を歩き廻っているのであった。帽子も外套《がいとう》もとらずに、
「何か異《かわ》ったことでもありましたかい?」
「昨夜、丸の内会館で、薬物学会の幹部連中が、やられちまいました。松瀬博士以下土浦、園田、木下、小玉《こだま》博士、それに若い学士達が四五人、みな今暁《こんぎょう》息をひきとったそうです」
「うん、松瀬君もやられたか」と博士はちょっと押黙《おしだま》って何事かを考えているようであったが、相変らず室内散歩の歩調をゆるめはしなかった。「気の毒なことじゃのう」博士の声は水のように淡々《たんたん》として落付いていた。
「先生、昨夜の連中は毒|瓦斯《ガス》にやられたそうです。症状からみると一酸化炭素の中毒らしいですが、どうも可哀想《かわいそう》なことをしました」と松ヶ谷学士[#「学士」は底本では「博士」、172−下段−2]は下を俯《む》いた。
「薬学者連中が毒瓦斯にやられるなんて、ちょっと妙な話じゃね」博士は、毒舌《どくぜつ》を弄《ろう》するというのでもなく、これだけのことをスラスラと言ってのけた。
「ですが先生、これで四度目でございますよ。半年とたたない間に、第一に電気学会の幹事会に爆弾を抛《ほう》りこまれて幹部一同が惨死《ざんし》をする。次はS大学の工科教授室の連中が、悪性《あくせい》腸《ちょう》チブスでみな死ぬし、第三番目には先月、鉄道省の技術官連が大島旅行をしたときに、汽船爆沈で大半《たいはん》溺死《できし》しましたし、これで四度目です。私はいよいよこれは唯事《ただごと》ではないと思うのですが……」
「唯事ではない――とは」博士が例の調子で呻《うめ》くように言った。
「偶然の出来ごとでは無いというのかね」
「確かに、これは何か陰謀が行われているのに違いないと思うのです。一つ先生のお名前で学界に警告をなさってはどうですか。でないと、この調子で行けば、遠からず、我国の科学者は全滅するかも知れません」
「全滅、ウフ、それも悪くはないだろうが、一応警告を出すことにしようか。それにしてもこれが陰謀だとすると、どんな方面からのものだと考えているかね、君は」
「私は、こう思っています」と松ヶ谷学士は瞳を輝かして言った。「どうやら、これは変態的な性格を持った化学者の悪戯《いたずら》だろうと思うのですが。それは鉄道省の場合の外《ほか》は、爆弾、バクテリア、それから毒瓦斯という風に、いずれも化学者に縁《えん》のあるものばかりが、殺人手段に使われていることです。それから犯人は
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