かてこて》に縛りあげてしまった。
博士は身震いして、ヨロヨロと立ち上ったが、そこに引きすえられた怪漢の顔を見ると、
「椋島君、お気の毒じゃな」と、薄気味のわるい笑顔をズッと近付けた。
翌朝の新聞紙は、一斉に特初号活字、全段ぬきという途方もない大きな見出しで、「希代の科学者|鏖殺《おうさつ》犯人|遂《つい》に捕縛《ほばく》せられる。犯人は我国毒|瓦斯《ガス》学の権威椋島才一郎」などと、昨夜の大事件を書きたて、彼の現場に於ける奇怪な行動や、精密な機械類の写真などが載った。帝都は鼎《かなえ》の湧《わ》くがように騒ぎ立ち、椋島が収容せられたという市ヶ谷刑務所へは、「椋島を国民に引渡せ」というリンチ隊が、あとからあとへと、入りかわり立ちかわり押しかけては、時代逆行の珍現象を呈した。それを鎮撫《ちんぶ》するのに、陸軍大臣に麻布《あざぶ》第三連隊に総動員を命ずるという前代未聞の大騒ぎが起ったのであった。
しかし、新聞紙面には、曩《さき》に行方不明になった松ヶ谷学士や、家出をした鬼村真弓子のことについては、一行も報道していなかったばかりではなく、昨夜、活躍したおキミの消息も、それから又おキミの信号により、硝子窓の破壊に従事した人物についても、何の報道もしていなかった。
6
それから約一ヶ月の月日が流れた。
あの事件を最後の幕として、科学者虐殺事件は其後《そのご》まったく起らなくなった。椋島技師の犯行は、愈々《いよいよ》明白となって死刑の判決が下り、その刑日《けいび》もいよいよ数日のちに近付いた。世間は、反動的に静かになり、東京市民は、めっきり暖くなった来《く》る朝|来《く》る朝を、長々しい欠伸《あくび》まじりで礼讃《らいさん》しあった。
鬼村博士は、どの市民よりも、ずっとずっと早くから、あの凄惨《せいさん》きわまる事件を忘れてしまったかのような面持で、何十年一日の如き足どりで化学研究所に通い、実験室に、立籠《たてこも》っていた。研究所の入口で出勤札《しゅっきんふだ》を返す手つきも同じなら、帽子を被ったまま、何時間となく室内をグルグル歩きまわる癖《くせ》も、全く前と同じことであった。
しかし、仔細《しさい》に誠を知り給う神の眼には、博士一味の行動こそは、その後、いよいよ出でて、いよいよ怪《け》しからぬものがあることがよく映っていたことであろう。実に博士こそは剣山《つるぎやま》陸軍大臣が、かつて椋島技師にスパイを命じたときに語ってきかせた国際殺人団の団長であったのだ。その下に集る団員は、博士の命令で、あの事件以来ピタリと鳴りを鎮《しず》め、その代り、新《あらた》に恐ろしき第二期計画に着々として準備を急いでいた。博士は、多数の権威を喪《うしな》った我国の科学界の王座に直って、あらゆる機関を手足の如くに利用していた。殊《こと》に博士が所長を勤める研究所にあっては、所外不出《しょがいふしゅつ》ではあるが極秘裡《ごくひり》に、数々の恐ろしい実験がくりかえされていた。たとえば、その一つの部屋を窺《うかが》ってみるならば、大きな金網《かなあみ》の中に百匹ずつ位のモルモットを入れ、これを実験室の中に置き、技師たちは皆外へ出た上で、室外から弁《べん》を開いて室内へ、さまざまの毒|瓦斯《ガス》を送り、モルモットの苦悩の有様や、死に行くスピードなどを、部厚な硝子窓からのぞきこんでは観測するのであった。こうして色々な毒瓦斯が研究されはしたが、結局、前に椋島技師が発明して残して行ったフォルデリヒト瓦斯《ガス》に及ぶ強力な毒瓦斯はなかった。これは非常に濃厚なもので、適当な精製法を経《へ》ると、三間四方の室なら五c.c.のフォルデリヒト瓦斯で、充分殺人の目的を達するようであった。博士は最近、この毒瓦斯の精製法に成功したのであった。
博士は其の日の午後、近くにせまる陰謀の計画をチェックしていた。すると、博士の愛するロボットは、珍客の案内を報じたのであった。博士はその密室を出て、広間の扉を開いた。そこには、この一ヶ月というものの間、全く生死不明を伝えられていた松ヶ谷学士が、おどおどした眼付で立っていた。
「松ヶ谷君か。君、どうしていたんだ」と博士は機嫌がよかった。
「ハイ、それは追々《おいおい》御話し申上げる心算《つもり》でございます」
と松ヶ谷学士は言って、口をつぐんだ儘《まま》、やや躊躇《ちゅうちょ》している風だったが、強いて元気をふるいおこす様子で、
「先生、実は、……申上《もうしあ》げ憎《にく》いので御座いますが、わたくし、お嬢様のお使いに本日参上いたしましたのですが……」
「ほう、真弓の使いというのか」博士は冷く言い放った。「遠慮《えんりょ》なくここへ連れてくればよいではないか」
「それが、どうしても先生に、所外まで御出《おい》で願いたいとい
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