士の言葉のとおりに、実は既にこの学士会館に到着しているのであった。だが彼は、どうしたものか、コック部屋にいるのであった。前の日|留吉《とめきち》に借りた妙ないでたちの上に、白いエプロンをぶら下げ、白いキッチン・キャップを被《かぶ》っていた。どうやら留吉の紹介でこのコック部屋へ這入《はい》りこんだものらしい。それはどこからみても、コックでしかなかった。椋島は料理の方には眼も呉《く》れず、部屋の片隅にある妙な道具の蔭に頭をつき込んでいる。その道具のことを説明すれば彼氏の奇怪な行動がわかるのであるが、それはプリズムとレンズとからなる反射鏡で、その器体はコック部屋から、換気洞《かんきどう》を上の方に匍《は》いあがり、果然《かぜん》、日本化学会の会合のある室に届いているのである。また彼の側にある特設電話器の延びて行く先を辿《たど》ってゆくならば、例の会合のある三階の窓際にある衝立《ついたて》の蔭に達しているのを発見するであろう。そればかりではない、その衝立のうちには、洋装の給仕女が控えていて、時々ぬからぬ顔をしてはその衝立から顔を出し、会合のある部屋の扉に注目しているのを発見するであろう。いや、それがバア・ローレライのおキミであることも既に発見せられているであろう。
 さて椋島技師ののぞいている望遠鏡には一体何が映っているのであろうか。そこには、例の会合室の正面に座っている鬼村博士の全身がクッキリと映し出されているではないか。椋島技師は、博士の挙動《きょどう》を静かに注目している。博士は今、何か喋《しゃべ》っているらしく口を開閉している。やがて一礼をして席についた。博士の右手が、スルリと伸びて、衣嚢《ポケット》の時計にかかった。博士は、秒針の動きを、じっと眺めている様子である。椋島技師は、ゴクリと唾《つば》をのみこんだ。博士は時計を握ったまま、顔を正面に立てなおした。そのとき博士のとなりに居るK大学の昌木《まさき》教授が何事か博士に向って尋ねているようである。博士は、じいと正面を向いた儘《まま》答えない。昌木教授は、すこし苛々《いらいら》した面持《おももち》になって来て、卓を叩いてワンワン詰め寄るかのように見えた。他から人が立って来て昌木教授をなだめている様子だ。しかし博士は黙《もく》して語らない。
 ところが其の時である。果然《かぜん》、昌木教授の表情が変って来た。昌木教授をなだめている人も、嫌《いや》な顔付にかわった。
「シ、しまった!」叫んだのは椋島技師である。反射鏡から飛びのくと、傍《そば》の電話器をつかんで、自棄《やけ》に信号をした。
「キミちゃん。早く信号しろ!」
 そう言ったかと思うと、椋島技師は、気が変になったようになってコック部屋を飛び出した。
 おキミは、素早《すばや》く側の窓を開くと、窓の下に腰をかがめ、右手を水車《みずぐるま》のように廻すと、何か黒いものをパッと窓外になげた。なにか街路の上で爆発するらしい音がして、スーウと青い光が閃《ひらめ》いた。パンパンと音がして、ヒューッと銃丸《じゅうがん》が窓外《そうがい》から、おキミの頭をかすめて衝立にピチピチと当った。そのとき遅《おそ》し、例の会合のある室の大きな硝子《ガラス》窓が、バシーン、ガラガラというすさまじい音響をたてて壊《こわ》れ始めた。何だか真黒な大きいものが、あとからあとへと硝子窓に飛んできては、硝子という硝子を悉《ことごと》く壊《こわ》してしまった。例の室内は硝子の破片がバラバラと雨のように降った。硝子の雨を浴びた一座のものは奇声をあげているばかりで、逃げ出そうとする気配《けはい》はなかった。どうやら、その前に、一同は毒|瓦斯《ガス》に幾分あてられているかのように、その場にグッタリと身体をのばしていた。硝子の破片で傷ついているものもあるようであったが、別に痛そうな顔をしていないのは、中毒作用のせいであろうと思われる。唯一人の例外は、鬼村博士であった。博士だけは、直立して、柱の蔭に硝子の雨を避けていた。警官連中は入口の扉を開きはしたが近寄れないので、どうしたものかと犇《ひしめ》き合《あ》っていた。
 そのところへ、いきなり飛び上って来た怪漢がある。警官が取押《とりおさ》えようとする手をはらいのけて、勇敢にも室内へ躍り込んだが柱のかげにひそんでいる鬼村博士の姿を目懸《めが》けて飛びかかって行った。博士は悲鳴をあげて救いを求めた。怪漢は、博士の顔を床の上におしつけると、博士の大きな鼻をねじり廻して、何だか綿のような白いものを、指先で抜きとったようであった。それはどうやら特種《とくしゅ》の薬品を浸みこませた濾気器《ろきき》で、博士が唯一人毒瓦斯に耐《こら》えていたのも、そのせいであるかのように思われた。そこへ警官連中が上から折重って怪漢をひきはなし、高手小手《た
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