うことなんで、実は、いろいろ入組《いりく》んだ事情もございまして、所内へ入るのは嫌《いや》だと仰有《おっしゃ》いますのですが……」
「よし、行ってやろう」と博士は、何を考えたか機嫌よく立ちあがった。
真弓子は、研究所から鳥渡《ちょっと》はなれた森の中に待っていた。彼女は、松ヶ谷学士が運転して来た自動車の中に、身うごきもせずに待っていた。彼女の相貌《そうぼう》は、この一ヶ月の間に、森華明《もりかめい》の描《えが》いた小野小町《おののこまち》美人九相の図を大急ぎで移って行ったように変りはてていた。額《ひたい》は高く、眼窩《めくぼ》は大きく、眼にはもう光がなかった。蒼白《そうはく》の頬、灰色の唇、すべて生きている人間のものではなかったのである。彼女は、椋島に捨てられたものと思い懊惱《おうのう》の果《はて》、家出をしたのであったが、電気協会ビル事件のとき、思いがけなく椋島のために一命を救われ、その翌日は其の助手となって学士会館の硝子窓破壊係をつとめてその夜の犠牲《ぎせい》を少くすることに成功した松ヶ谷学士に探し出されて、椋島の誠意を伝えられたが、それは遂に好意であって得恋《とくれん》ではなかった。其内《そのうち》に識《し》るともなく父鬼村博士の陰謀に気付き、夜に昼を継《つ》いで歎《なげ》きかなしんだため、到頭《とうとう》ひどく身体を壊してしまった。だが、椋島技師の死刑が近いと聞いたので、彼女は片恋《かたこい》ながら、なにをおいても椋島を救いたく思い、それには、父博士によって、椋島技師の行状《ぎょうじょう》を有利に証言して貰うことができれば、必ず彼女の思いはとどくものと信じ、こうして生と死の境を彷徨《ほうこう》する身体をここまで搬《はこ》んできたのであった。
彼女の傍に立った鬼村博士は、急ににがりきった顔付になって、真弓子の痛々しい姿に、一言の憐憫《れんびん》の言葉もかけはしなかった。彼女は、いくたびかはげしく咳《せ》きいりながら、虫のような声でくりかえしくりかえし歎願し、椋島の助命を頼んだのであった。しかし父博士は一言も口を開かなかった。が真弓子が絶望のあまり、泣き声も絶《た》えてその場に気を失ったとき博士は始めて口をきいた。
「松ヶ谷君、悪魔のしのび笑いを耳にしないかね!」
二発の銃丸が、消音|短銃《ピストル》のこととて、音もなく博士の手から松ヶ谷学士と真弓子の脇腹
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