減に、物静かな足どりをはこんでゆく紳士がある。茶色のソフト帽子の下に強度の近眼鏡《きんがんきょう》があって、その部厚なレンズの奥にキラリと光る小さな眼の行方《ゆくえ》は、ペイブメントの上に落ちているようではあるが、そのペイブメントの上を見ているのではないことは、その上に落ちていたバナナの皮を無雑作《むぞうさ》に踏みつけたのをみていても知れる。バナナの皮を踏んだものは、大抵《たいてい》ツルリと滑べることになっているが、この紳士もその例に洩《も》れずツルリと滑ったのであるが、尻餅《しりもち》をつく醜態《しゅうたい》も演ぜずに、まるでスケートをするかのように、鮮《あざや》かに太った身体を前方に滑《すべ》らせて、バナナの皮に一と目も呉《く》れないばかりか、バナナの皮を踏んだことにも気がつかないようにみえた。そこで紳士は、急に進路を左に曲げて、ある大きな石の門をくぐって入った。守衛が敬礼をすると、紳士は、別にその方を振りむいてもみないのに、鮮《あざや》かに礼を返したが、その視線は、更に路面の上から離れなかった。軽く帽子をとったところをみると、前頂《ぜんちょう》の髪が可《か》なり、薄くなっている。年の頃は五十四五歳にみえた。
この紳士は、構内を物静かに歩いて行った。それは五階建ての白い鉄筋コンクリートの真四角なビルディングが、同じ距離を距《へだ》てて、墓場のように厳粛《げんしゅく》に、そして冷たく立ち並んでいる構内であった。紳士は、そのようなビルディングの蔭を七つ八つも通りすぎてから、これはまた何と時代|錯誤《さくご》な感じのする煉瓦《れんが》建《だて》のビルディングの扉《ドア》を押して入って行った。そこで紳士は直ぐ左手の壁にかかっている沢山の名札《なふだ》の中で一番上の列の一番端にかかっていた「研究所長|鬼村《おにむら》正彦《まさひこ》」と書いた赤い文字のある札を手にとって、その裏をかえすと、又|復《もと》の位置にパチリと収《おさ》めた。赤かった文字が、今度は黒い文字に代り、矢張り「研究所長鬼村正彦」と名が読めた。さてその老紳士鬼村所長は、この動作中にも、別に視線を動かすようなこともなく、札をかえしてしまうと、階段の下の薄暗い隅にある扉を開いて、それから長い廊下を、音のしないように歩き、一番奥まった部屋の中に姿を消した。すべての行動が、いかにも馴《な》れ切った世界に、大した
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