ろう。梅野十伍はそのベルの音《ね》を聞いた瞬間に必ずや心臓麻痺を起し、徹夜の机の上にぶったおれてあえなくなるに違いないと思っているのである。
原稿紙の上には、ただの一行半句も認《したた》めてないのである。全くのブランクである。上の一枚の原稿用紙がそうであるばかりではなく、その下の一枚ももう一つ下の一枚も、いや家中の原稿用紙を探してみても只の一字だって書いてないのである。それだのに、朝になると、必ず詰襟の少年が、字の書いてある原稿紙を取りに来るのである。少年は梅野十伍の女房に恭々《うやうや》しく敬礼をして、きっとこんな風に云うに違いない。
「ええ、手前は探偵小説専門雑誌『新探偵』編集局《へんしゅうきょく》の使いの者でございます。御約束のセンセイの原稿を頂きにまいりました、ハイ」
――それを考えると梅野十伍は自分の顔の前で曲馬団の飢えたるライオンにピンク色の裏のついた大きな口をカーッと開かれたような恐怖を感ずるのであった。実に戦慄すべきことではある。
なぜ彼は、原稿用紙の桝目《ますめ》のなかに一字も半画も書けないのであるか。そして毒|瓦斯《ガス》の試験台に採用された囚人のように、意気
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