りのところを、墨くろぐろと抹消した。
 時計は午前四時半となった。
 梅野十伍は、原稿が一向はかどらないのに業を煮やしている。うかうかしていると、もう郊外電車が動き出す時刻になる。新聞配達も、早い社のは、あと三十分ぐらいで門前に現われることだろう。そうなると、門の脇に取りつけてある郵便新聞受の金属函がカチャリと鳴り響くはずだった。それが夜明けの幕が上る拍子木の音のようなものであった。
 彼は福引の話をとにかく物にして、すこし気をよくしていたが、それにしても、福引の話は飽くまで福引の話であって探偵小説とはいい難《にく》い――といわれやしないだろうか。
「さあ、早く探偵小説を書かなきゃあ!」
 と、梅野十伍は、自分の勝手な清掃癖が禍をなしてペンの進行を阻んでいることにも気づかず、またやっこらやと立ち直って、探偵小説狩りに出発するのであった。
 誰が見てもなるほどそれが探偵小説らしい形式を備えていることが分るようなものを選んで書くのが賢明なやり方だ。そういう形式を採ってみようと、梅野十伍は考えた。
 それでは国際関係険悪の折柄、ひとつ国境に於ける紅白両国の人間の推理くらべを扱った探偵小説を書いてみることにしよう、と梅野は決心した。
 まず道具立を考えるのにここは紅白両国の国境である。あまり広くない道路が両国を接《つな》いでいる。その道のまん中あたりに、アスファルトの路面に真鍮《しんちゅう》の大きな鋲《びょう》を植えこんで、両国国境線がひと目で分るようになっている。夜になるとこの鋲は見えなくなるから、代りに道の両側に信号灯が点くような仕掛けになっている。
 その国境線を間に挿《はさ》んで両側に、それぞれの国の材料で作ったそれぞれの形をした踏切の腕木のようなものがある。国境線上を通過する者があるたびに、この二つの腕木がグッと上にあがるのだった。国境越えの人々は、その腕木の下を潜って、相手国のうちに足を入れ、そしてそこに店を開いて待ちうけている税関の役人の前にいって国境通過を願いいで、そして持ち込むべき荷物を検査してもらうのである。それが済めば、そこで税関前の小門から、相手国内にズカズカ這入《はい》ってゆくことを許されるのである。
 まあ道具立はそのくらいにして置いて、ここに紅国人の有名なる密輸入の名手レッド老人を登場させることにする。
「また一つ、頼みますよ。ねえ、税関の旦那ァ。――」
 レッドの銅鑼ごえに(この前にドラを銅羅と書いたのは誤り。どうもすこし変だと思って今辞書を引いてみると、ラの字は金扁《かねへん》があるのが正しいのであった。小説家商売になるといちいち字を覚えるだけでもたいへん骨の折れることだった)――そのレッドの銅鑼ごえに奥の方から役人ワイトマンが佩剣《はいけん》のベルトを腰に締めつけながら、睡むそうな顔を現した。(と書くと、この国境の税関には余り事件もなく、かなり平和な呑気な関所であることが読者に通じるだろうと、作者梅野十伍はそう思いながら、こう書いたのである)
「なあンだ、レッドか。また鼠の籠を持ちこもうてえんだろう。あんまり朝っぱらから来るなよ。鼠なんか夕方で沢山だ」
 ワイトマンはいささか二日酔の体で、日頃赭い顔がさらに紅さを増して熟れすぎたトマトのようになっている。(この件は、作者梅野十伍に自信がなかった。彼は生れつきアルコールに合わない体質を持って居り、いまだ嘗《かつ》て酒杯《さかずき》をつづけて三杯と傾けたことがない。だから二日酔がどんな気持のものだかよく知らず、また二日酔になった患者はどんな顔をしているか正確なる知識はなかった。ただ彼の親しい友人のAというのが、よくこんな赭い熟れきったような顔を彼の前に現わして、「ああ昨夜《ゆうべ》は近頃になく呑みすぎちゃった。きょうはフラフラで睡い睡い」と慨《なげ》くのであった。梅野十伍は、そういうときの友人Aの容態が所謂《いわゆる》二日酔というのだろうと独断した。だから白国官吏のワイトマンは迷惑にも作者の友人Aの酔態を真似しなければならなかった)
「旦那、そういわないで見ておくんなさい。儂《わし》は生れつき胡魔化《ごまか》すのが嫌いでネ、なるべくこうしてお手隙の午前中に伺って、品物をひとつ悠《ゆっ》くり念入りに調べてお貰い申してえとねえ旦那、このレッドはいつもそう思っているんですぜ」
「フフン、笑わせるない。生れつき正直だなんて云う奴に本当に正直な奴が居た験《ため》しがない。ことに貴様は、ちかごろここへ現れたばっかりだが、その面構えは本国政府からチャンと注意人物報告書として本官のところへ知らせてきてあるのだ。どうだ驚いたか、胡魔化してみろ、こんどは裁判ぬきの銃殺だぞ」
「エヘヘ、御冗談を、儂はそんな注意人物なんて大した代物じゃありませんや、ただ鼠を捕えてきては、この向
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